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日蓮大聖人・池田大作

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素粒子の世界に思う  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  原子という言葉は、今では、あまりにも日常的となった。原子力という巨大な力が、この言葉を全人類に流布させたといってよい。言うまでもなく原子というのは、物質を構成している基本の粒子である。
 その大きさは、だいたい直径が一億分の一センチと聞く。つまり、直径一センチのものを地球の大きさとすれば、人間の大きさに相当するという。
 こんな小さな粒子に、人間は、怪物のような力を感じていることになる。つい最近、シカゴ大学の物理学教授アルバート・クルー博士が、電子顕微鏡で、分子内の原子ひとつひとつを撮影することに成功したことが、写真入りで報じられていた。
 今までは原子を見るのには、間接的な方法しかなかったようだ。それが、直接的に物質構造の姿を見ながら、研究を進められるようになったのであるから、科学界の進歩の一つであるにちがいない。
 しかし、この原子も、また決して最小の世界ではなく、その十万分の一の大きさの素粒子と呼ばれるもので構成されているという。
 一般には、原子は、原子核と電子でつくられているといわれる。むろん、この原子核は、陽子、中性子、中間子等で構成されていることは、科学の常識となっている。それはともかくとして、この原子核と電子は、電気的に、プラスとマイナスで引きあっているわけであるが――その間は真空である。したがって原子の内部は、ほとんど大部分が真空ということになる。
 物質構成の基本粒子が、その内部は、ほとんど真空であるのだから、物質というのは、その実、真空でできているといっても、あながち間違いとはいえない。たとえ、鉛のような密度の高い物体でも、原子内部をさぐれば、結局、真空でできているとしか言いようがなくなる。人間を、ぎゅっと押しつぶして原子核同士密着させると、ほこり一粒にもおよばない大きさになるのだから、まったく恐れいる。
2  その昔、原子は物質の根源とされた。そして、不生不滅と言われてきたが、もはやそれが、現在では否定されていることは周知の通りである。そればかりではない。原子の奥をさぐっていって、突き当たった素粒子もまた、決して不生不滅ではない。それどころか、多くの素粒子は、一億分の一秒という、想像も絶するような短い寿命と聞く。しかも、他の素粒子に転化したり、まったくのエネルギーになってしまう。
 その短い寿命も、速度によって違ってくる。速く走れば走るほど、寿命が延びてくるという。これは素粒子が、いかに速いスピードで走っているかを示すもので、相対性原理を実証していることにほかならない。素粒子の世界は、決して“静的”なものではない。それこそ壮大なドラマが、そこで繰り広げられているわけだ。大宇宙と同じように。
 人間もまた、科学の眼でみれば、物質的存在であることに変わりない。その存在のなかに、壮大なるドラマが展開されているというのは、思うだに、愉快である。
 原子核の内部について――陽子と、中性子、さらに中間子からできていると述べたが、それは、われわれが想像するような、秩序の世界ではないようだ。素粒子の種類も、現在では三百種類を超えているという。その一つの原子核を一センチの玉とすると、電子は百メートル離れたところを回っているという。互いに、飛びかい、はねまわり、たちまち消滅してしまう。それは、無秩序といっていい、カオスの世界であるようだ。
 むろん、この素粒子の世界にも、法則がないわけではあるまい。しかし、巨視的な世界における法則はあてはまらない。これを解明しようとするのが量子力学であり、さらに、その矛盾を克服しようとしたのが、場の量子論であるという。さらに、それでも――あてはまらない現象がいろいろ起き、その矛盾の是正のために、さまざまな試みがなされているとも、聞き及ぶ。
3  これらについては、私も興味があるので、わずかに頭を突っこんでみたが、専門家では毛頭ないし、恥さらしになるので省略したい。ただ、あの素粒子の大家である、湯川博士が「毎日新聞」の「現代学問論」という連載の対話の中で「自分の素粒子の研究は、暗い闇の中を、うろうろしながら、手さぐりで探しているようなものだ」という意味のことを述べていた。それには、私でさえ、いささか驚いたしだいである。
 それほど、素粒子の世界は、複雑多岐で、未知の暗闇が広がっているものか――私はこの一文を読んで、深い感慨にふけったのである。
 過去、幾十世紀にわたり、どれほど多くの科学者が、物質の根源に迫ろうとしてきたことか。そして、そこには、かならず単一の何かに突き当たるという確信があったはずである。
 しかし、その根源は、決して単一ではない。また、静的な定常的なものでもない。それこそ、ダイナミックな激動の世界であった。そのカオスは、狭められるのではなく、広がっていく一方である。いわんや、素粒子と時間・空間の問題は少しも解決されず、これからの問題として、科学者の前に立ちふさがっているのである。
 しかし、このミクロ(極小)の世界を離れて、マクロ(極大)の世界はありえない。またカオスの世界を離れて、秩序整然たる森羅万象は、ありえないのである。その関連に、あまりにも不思議を感ずるのは、私一人だけではあるまい。
 私は、なにやかや思いをめぐらしているうちに、一つの考えにぶつかった。それは、科学というものは、“生々流転”の現象を追究している学問である以上、どこまでいっても変転をまぬかれないのではないかということである。
 ミクロであれマクロであれ、物質の世界は、仏法にいう成住壊空の、生々流転を繰り返す変化の世界である。この現象の世界を同次元で追究していくかぎり、それは、単に現象をより細分しているだけとなろう。しょせん、流転する現象の底に流れる本源――仏法はこれを常住の世界と説くが――不変の当体はとらえられまい。常住の世界を開くものは、科学の使命ではなく、むしろ哲学の使命ではあるまいか。
 ちょうど科学において、マクロの世界の法則がミクロの世界にあてはまらぬように、哲学の思惟で森羅万象の奥にあるものを探るには、別の法則が必要なのかもしれない。
 素粒子の世界に思いを馳せているうちに、いつのまにか哲学にまで飛躍してしまった。私の頭も、どうやら、静から――動へと変化していたようである。

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