Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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科学と人間  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  科学が進歩を遂げることができたのは、人間の理性に絶対の信をおいたためであったが、同時に、現代の科学が重大な壁に突きあたったのも、理性万能となってしまったことが原因であると思う。
 つまり、理性は諸刃の剣であり、善にも悪にも通ずるわけである。善の面は、さらにどこまでも伸ばしていきたいものだ。悪の面は、ぜひとも何らかの歯止めがほしいものである。その歯止めがなければ、恐ろしくて、善の面も伸ばすわけにはいかなくなってしまうのではなかろうか。
 そこで人間は、今一歩、賢明にならなくてはなるまい。人間の中に理性を開き、そこに信をおいたごとく、理性を動かし光沢を与える、一段と高い……何かがないかと、考えなおしてみてはどうだろうか。そこに、理性の暴走への歯止めがあると、私には思えてならない。
 人間の執着心は、かなり強いものである。いったん、一つの価値観が定まってしまうと、それにしばられてしまい、自由な思考をしているようであって、実際は、いつのまにか、自縄自縛となっていることが多いようだ。
 その執着心を断たないかぎり、新しい創造は生まれないのである。理性万能、科学万能というのも一つの執着心である。これまでは、それでよかったかもしれない。今、その過信に深刻な動揺をきたしており、まさしく、頭を切り換えるべきチャンスが到来していると思うのは、私一人ではあるまい。固定から動揺へ、そして新しい思考へ、やがて新しい創造へ、というのが、進歩の過程と思われるからである。
 そこで、生意気のようであるが、もう一度、この理性というものを考えてみたいのである。理性というものは、人間の前頭葉の働きである――と、大脳生理学上いわれている。それは、生命の活動の重要な一部分である。つまり、絶対に重要ではあるが、一部分であるということだ。人間の理性の奥には、さらに果てしなく、生命の大海が広がっていることに気づかなくてはならないと思う。
 科学と人間というテーマに、画期的な思考がなされるためには、このへんに、その発想の原点がありそうである。
 理性的な人間は、科学にとって、好都合な人間である。それはそれで大いに伸ばしてよいであろう。しかし、その基盤に、“全体人間”というものが、確立されるべきであるというのが、私の主張なのである。すなわち、人間の「生命」そのものが充実し、開花していく試みが、今こそ、なされねばならないであろう。
 生命とは、内より発するものである。いな、発動そのものともいえる。これを、よりよく開き導いていくところに、宗教の使命がある。科学と人間というテーマは、帰するところ、科学と宗教というテーマになってくるのではあるまいか。
 宗教は、迷信、盲目であるといった既成の固定概念は、もはや打破されるべき時代に入ったと考えたい。
 二十一世紀を、ふたたび科学と進歩の世紀とするためには、宗教への回帰が必要であることを、私はどうしても叫ばずにはいられないのである。

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