Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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科学と人間  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  十九世紀は、科学と進歩の時代であった。人々は、科学に対し絶対の信頼をおいて、人類の限りなき進歩を夢みていたようだ。
 二十世紀は、それに対し、科学の爛熟期に入ったとみられる。その進歩も、十九世紀の比ではない。特に二十世紀の後半、その進歩は、めまぐるしく、年々、世界が変転している現状である。しかし、それにもかかわらず、かつていだいていた科学への無限の信頼は、崩れはじめてきたと、私には思えてならない。
 科学の進歩が、そのまま人類の幸福につながっているかどうか。かえって、不安を増大していく皮肉な現実も、頭をもたげはじめているといえよう。
 もう、こんなことは言い古されたことかもしれぬが、だからといって放置してはなるまい。実は、この現実には、大変な問題が含まれているからだ。
 科学の進歩は、つねに頭の切り換えによってもたらされてきたといってよい。太陽が、地球を回っていると考えたのに対し、地球自体が回転しているとしたところに新しい世界が開けたわけである。アインシュタインの相対性原理にせよ、およそありとあらゆる科学上の重要な発見は、これまでの盲点に気づき頭を切り換えたことによって、もたらされたといっても過言ではない。
 科学も、かつていくたびとなく行き詰まったことがある。しかし、先覚者のなみなみならぬ努力によって、それらを打開し、新しい未知の世界へ光を差しこんできたのである。
 その科学が、巨大なうねりを立てて驀進しながら、しかも、行き詰まったのである。しかも、それは、従来の行き詰まりとは異質のものでさえあるようだ。かつては、科学の世界のそれであった。今は、科学と人間という新しいテーマが、科学の前に立ちはだかったようである。
 ふたたび――人間の進歩の世紀を開くためには、この根本的なテーマに、ぜひとも解答を与えねばなるまい。
 科学は、これまで人間性を排除し、鋭い分析という手段で、栄光の座をかちえた。それは、決して、人間を離脱したのではない。情緒とか愛情といったものを、ことごとく抜きとって、人間の合理性に、根本の信をおいたのであって、あくまで人間のなかにあるものの所産である。
 人間を離れて科学はない。これは、永久に変わらぬ真理であろう。その最も素朴な真理に、もう一度立ち返ってみる必要があるのではなかろうか。そして、この視点に立って、ふたたび頭の切り換えを行うべきでないだろうか。
2  科学が進歩を遂げることができたのは、人間の理性に絶対の信をおいたためであったが、同時に、現代の科学が重大な壁に突きあたったのも、理性万能となってしまったことが原因であると思う。
 つまり、理性は諸刃の剣であり、善にも悪にも通ずるわけである。善の面は、さらにどこまでも伸ばしていきたいものだ。悪の面は、ぜひとも何らかの歯止めがほしいものである。その歯止めがなければ、恐ろしくて、善の面も伸ばすわけにはいかなくなってしまうのではなかろうか。
 そこで人間は、今一歩、賢明にならなくてはなるまい。人間の中に理性を開き、そこに信をおいたごとく、理性を動かし光沢を与える、一段と高い……何かがないかと、考えなおしてみてはどうだろうか。そこに、理性の暴走への歯止めがあると、私には思えてならない。
 人間の執着心は、かなり強いものである。いったん、一つの価値観が定まってしまうと、それにしばられてしまい、自由な思考をしているようであって、実際は、いつのまにか、自縄自縛となっていることが多いようだ。
 その執着心を断たないかぎり、新しい創造は生まれないのである。理性万能、科学万能というのも一つの執着心である。これまでは、それでよかったかもしれない。今、その過信に深刻な動揺をきたしており、まさしく、頭を切り換えるべきチャンスが到来していると思うのは、私一人ではあるまい。固定から動揺へ、そして新しい思考へ、やがて新しい創造へ、というのが、進歩の過程と思われるからである。
 そこで、生意気のようであるが、もう一度、この理性というものを考えてみたいのである。理性というものは、人間の前頭葉の働きである――と、大脳生理学上いわれている。それは、生命の活動の重要な一部分である。つまり、絶対に重要ではあるが、一部分であるということだ。人間の理性の奥には、さらに果てしなく、生命の大海が広がっていることに気づかなくてはならないと思う。
 科学と人間というテーマに、画期的な思考がなされるためには、このへんに、その発想の原点がありそうである。
 理性的な人間は、科学にとって、好都合な人間である。それはそれで大いに伸ばしてよいであろう。しかし、その基盤に、“全体人間”というものが、確立されるべきであるというのが、私の主張なのである。すなわち、人間の「生命」そのものが充実し、開花していく試みが、今こそ、なされねばならないであろう。
 生命とは、内より発するものである。いな、発動そのものともいえる。これを、よりよく開き導いていくところに、宗教の使命がある。科学と人間というテーマは、帰するところ、科学と宗教というテーマになってくるのではあるまいか。
 宗教は、迷信、盲目であるといった既成の固定概念は、もはや打破されるべき時代に入ったと考えたい。
 二十一世紀を、ふたたび科学と進歩の世紀とするためには、宗教への回帰が必要であることを、私はどうしても叫ばずにはいられないのである。

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