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日蓮大聖人・池田大作

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現代文明と宗教  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  近代以後の科学の発達は、なによりも宗教に対して、最大の打撃を与えた。科学の光が、過去の宗教を包んできた神秘のベールを突きやぶり、その正体を明らかにすることによって、多くの人々を目覚めさせたことは事実である。
 このことから、現代人は、宗教というものについて、もはや無用の長物であるという一種の軽蔑をさえもっているようである。特に、マルクス主義者は宗教はアヘンなりと断定し強い疑念をいだいている。マルクス主義が現実の社会体制として、世界の三分の一を覆い、科学的合理主義が地球上の大部分の――文明社会を支配している今日、宗教の退潮ぶりは、むしろ当然のことといえるかもしれない。
 たしかに、みずからを神秘のベールに包み、見えざる権威によって人々の上に君臨した宗教は、それだけでも、排撃されるべき理由が、十分にあったと私も考えている。いわんや、不合理な教義で人間の理性をゆがめ、文化の沈滞をまねくような宗教は、時代とともに沈んでいくこともやむをえないであろう。
 しかし、そういったからといって、私は宗教そのものが存在価値を失ったかのごとく論ずるのは、あくまでも誤りであると思う。科学がいかに目覚ましい発達を遂げたとしても、人間は、科学だけで満足していくことはできない。むしろ、科学が進めば進むほど、宗教が強く求められるし、事実、宗教が大きい指導性をもっていかなければならないであろう、というのが私の考えである。
 それは、なぜか。科学は、人間の生命を支えている環境世界について、その物理化学的法則性を明らかにしてくれる。また、その法則を踏み台として、さまざまの応用化の道も教えてくれよう。ところが、肝心の生命主体それ自身については、科学はなんら解明してくれない。
2  科学万能を信ずる人々は、生命については生物学や生理学が、これを究明しているではないかというかもしれない。これらの学問が、いまだきわめて初歩的な段階でしかなく、生命の本源を解き明かすには遥カに遠いということは、私があらためて主張するまでもないだろう。それだけではなく、こうした追求の仕方は、生命を単に既成の種々の概念に分析し、死んだ物体としてしまうのみで、決して生きた生命それ自体をとらえることはできないと考えられる。
 言いかえると、ただ“未熟”というのではなく、めざしている方向自体が、生命そのものを把握するためには、その出発点から異なっているのである。かりに、生物学や生理学が十分に発達をなしとげ、生命体を実験室でつくることに成功したとしても、それは現に生きている生命そのものの解明ではない。いわんや、私たちの人生の根本的解決とはならないであろう。
 生命へのアプローチは、科学の本領である分析と総合によるのではなく、直観智によらなければならない。それは、優れて主観的なものであり、生きている自己への生命感である。人間の幸・不幸の諸相は、この生命感の変化相以外のなにものでもないからだ。
 たとえば、空腹の人にとっては、目の前の一杯の御飯はたとえようもない幸福をもたらしてくれる。しかし、失恋の悲哀のどん底にある人にとっては、なんの価値もあるまい。同じ物であっても、これが呼びおこす幸福感は、人によって千差万別なのである。
 もし、人間にとっていかに巨大なエネルギーを生みだすか、物質的な富をどこまで伸ばすか、人間宇宙船はどこまで到達しゆくか等といったことだけが目的であるならば、科学は十分、それに応えることができよう。だが、それが、どれだけ人間の幸福に結びつくかという問題になると、もはや、科学だけの力ではどうしようもなくなる。
 幸福感という問題の主要ファクターは、あくまでも人間生命それ自体なのである。したがって、もしこの問題に決定的な解決を求めようとするならば、人間生命自体への本格的なアプローチが行われなければなるまい。その生命へのアプローチの道を開いていくものこそ、私は真実の宗教であると確信している。
 そうした宗教の存在は、人間の英知の最高峰であるとともに、一切の人間の努力や、その努力の成果としての文化を、真に豊かに実らせていく土壌ともなろう。これなくしては、いかなる努力も砂上の楼閣と化すからである。
3  現代文明の姿を少しでも冷静に見直してみた人なら、この道理は明確に納得ができるにちがいない。現在という時点に限ってみても、資産あり物質的に恵まれている人が、かならずしも幸福ではないことは周知のとおりである。
 また、歴史の流れのうえに立って、たとえば三百年前の江戸時代の庶民と、現在の庶民とを比較するがよい。生活環境の便利さや物質的な条件では、今日の庶民が、幾百倍も恵まれている。だが、それだけ幸福感も百倍しているかといえば、おそらく、ほとんど違わないといっても過言ではあるまい。
 さらに、あえて言うならば、現代社会における生命軽視の風潮も、物質偏重に流された現代文明の一断面にほかならない。
 青少年の犯罪などの社会問題、利潤追求のみにあけくれて顧みられぬ公害、激増の一途の交通事故、そして最大の公的殺人である戦争等――すべて、生命軽視という、一つの同じ根に帰着する。
 生命尊重の発想、生命の尊厳を守る思潮を、この現代文明を動かしていく力強い底流として確立し、生命軽視より生命尊重への百八十度の転換をなしとげるためには――新しい思想、宗教の興隆が、実現されなければならない。また、そうした文化全体の転換をもたらすほどの、強い指導性、理念、人間の理性と感情と生命に訴えかける、力をもった宗教でなくては、存在価値はないといってもよかろう。
 まさに、アインシュタインの言うごとく「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教にも欠陥がある」のである。
 この言葉は、科学時代と言われる現代においても、また、ますます科学が発達しゆくであろうと予測される未来においても、文化の創造と建設にたずさわる人々への重要な警告であり指針でもあろう。
 人類の文明が、狂気と腐敗の泥沼から脱し、希望に満ちた光明の世界に入り――人間が、人間として、平和な生活を営んでいけるかどうかは、この力強い理念をもった、新しい思想、宗教をこの世界に興隆し、人類の手にすることができるかどうかで決まっていくであろうと、私は思っている。

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