Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙と生命  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  この地上に生物が誕生して、四十数億年といわれる。これにはさまざまの説もあろうが、ともかく生物誕生以前の地球が、あったことだけは確かのようである。また、今日、この地上にそれこそ無数の生物が息づいていることは、厳然とした事実でもあろう。しかも、この無数の生物が、それぞれの環境をもっており、驚くべき適合がみられる。言わば、地上は、私には生命そのもののように思われてならない。
 かつて、宇宙飛行士の一人が「この地球は広い宇宙のなかのオアシスだ」と叫んだが、まさしく、生命のオアシスであり、生命の世界であるといえよう。
 この地上も、かつては、生命はなかったであろう。では、いったい、どうして生命のない世界が、生命の世界へと変転していったのであろうか。そもそもこれは、地球だけに限られた現象なのであろうか。生命誕生のドラマは、あまりにも神秘に満ちみちているようである。
 現代の科学は、この神秘のベールを一つひとつはぎとり、その真実の姿をしだいに明らかにしつつある。進化論をおしすすめることによって、生命の起源に言及していったオパーリンの学説、また最近の分子生物学の発達による生命の構造の解明等と、科学が生命に近づいていく歩みには、迫真の力がこもっている。
 私は、この科学の並々ならぬ努力と成果に対し、心から敬意を表したい。
 だが、もう一歩深く、科学のとらえた生命というものを考えてみなくてはならないような気もする。というのは、科学のとらえた生命というものは、生命現象であって、その現象を現象たらしめている、生命の根源的事実の探究ではないようであるからである。また、その現象の説明も、事象の経過であって、なにゆえそのような経過をたどっていったのか、根本因に迫るものではないということである。
 つまり、現代科学が問題にしているのは、「無生物から生物が誕生した」という事実であり、それを裏づける証拠を見いだすことにあるのであって、なにゆえ、無生物から、生物が誕生したかという本源論ではないのである。こう述べると、いささか当惑する人もあるかもしれないが、それが、科学というもののあり方ではあるまいか。
2  私は、科学者ではない。したがって、この科学の見いだしつつある「無生物から生物が誕生した」という命題のもとに、自由に思索してもよいと思う。
 およそ、「生きている」ということは、どういうことなのか。少なくとも、環境によってすべてを決定され、動かされていくのでは「生きている」とはいえまい。つまり、環境と適合しながらも、自律性をもっていくのでなくてはなるまい。この自律性は、根本的には他から与えられたものではなく、内より発動してくるものであって、この発動性(能動性)がなければ、真実に「生きている」ということにはならぬであろう。
 この自律性、それを支える発動性をもった生物が、かつては、この地上には存在しなかったにちがいない。しかも、その自律性、発動性は、無生の世界から生じたといってよいだろう。
 果たして、この自律性、発動性は、もともと、地球にはなかったのだろうか――それとも、内に秘められていたものだろうか。私には、この地球は、もともと無生の世界ではなく、生命への方向性を内に秘めていたように思えてならない。むろん、そうした内在する本源といったものを科学的に実証するわけにはいくまい。しかし、内在していたものが顕在化していったと考えることが、より本源に迫った哲理であると、私には思えてならないのである。
 生物か無生物かといったところで、それを原子に還元し、さらに素粒子にまで帰していけば、そこには差はありえない。また、生命の構成を細胞に求めたところで、初めから細胞があって、そこに生命が宿ったわけではない。つまり、物質そのもののもつ、自律性、発動性(能動性)に従って、それ自身を特殊化していったのであって――構造そのものに、生命があるのではないようだ。分子生物学が発達して、いかに生物のしくみが分かっても、生命そのものが解明されたわけではないのである。
 また、進化論をおしすすめて、生命の発生に自然淘汰の考え方をあてはめても、それでは環境によって受動的に形成された一面を強調するのみで、環境に主体的、能動的に適応していった生命自体は、相変わらず未解決であるといえよう。
 デオキシリボ核酸(DNA)等に、生命を解く根源的な鍵を求めようとする考え方もあるが、生命の最初にこのようなものがあったわけではないと思う。つまり生命それ自体がDNAをつくっていったのであって、DNAが、生命をつくったものではない。
 生命は、もともと地球に潜在的にあった。言いかえれば、地球そのものが、生命的であったといえまいか。
3  そう考えると、生命の誕生を地球だけの問題とし、地球のみが生命の世界であり、他の天体は死の世界であるとする根拠は、どこにもなくなる。なぜなら地球を構成する物質は、この宇宙の中で、なんら特殊なものではないからである。
 このことについても、最新の科学はきわめて納得のいく予測を立てている。銀河系の中でも高等な文明をもつ天体が、一万個はあるだろうという考えもある。それによると、銀河系一千億の恒星(二千億という説もある)のうち、地球と同じような冷えた惑星をもつものが、その十分の一の百億個、親の恒星から、適度の光と熱を吸収している惑星が、その二十分の一として五億個――その惑星の中で、大気があり自転によって昼夜の別があり、生命発生の可能なものが、百分の一として五百万個、このうち人類のような――高い知能をもつ生命が存在する惑星が、五百分の一として一万個というのである。
 さらに、銀河系のような小宇宙が、一千億から二千億あるとすれば、広い大宇宙には、それこそ無数の――高度の文明をもつ天体があることになる。この説は、少し楽観的な計算によっているかもしれない。しかし、現代の科学者は、等しく宇宙には生命の発生と生長に都合の良い条件が、かなり広範にそなわっているのではないかと予測しているようだ。しかも、無始無終の宇宙の連続を考慮するとすれば、宇宙には、つねに生命が脈打っていると考えられそうである。
 バナールは、この地上における、生命の発生を“生命の池”というもので説明したが、それとは意味が違うが、あえて、その言葉になぞらえて言えば、この宇宙は“生命の海”なのかもしれない。そして、条件さえそなわれば、いつでも生命が誕生していく可能性を、宇宙全体にたたえているのではなかろうか。
 こう言ったからといって、私は、生命に超自然的な神を導入するつもりはない。生命は、神という作者による作品ではない。生命それ自体が作者であり、しかも作品なのである。仏法の説く“十方仏土観”という意義が、分かるような気がする。
 生命に、本来特有の自律性、発動性は、もともと宇宙にそなわっていたものであり、宇宙を貫く“法”であると私は思う。決して、法を無視した、得体の知れぬものがあるわけでもなく、宇宙に貫きゆく“法”が、顕現され具体化された実相が、生命であると私は考えたい。

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