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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙の大きさ  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  人類の月面到着は、科学技術の勝利の凱歌であった。とともに宇宙時代への開幕を告げる、荘厳なる儀式でもあったといえる。この分でいくと、もう人類は、自由に宇宙空間を旅行できるようになるのも、間もないように思われてくる。次は火星であるという現実的な目標も立てられ、そのスタートもすでに切られているようだ。なにか、宇宙というものが遠い彼方ではなく、自分の身近なものとして感じられるようになったことは、私一人の感慨ではあるまい。
 しかし、ここでもう一度――宇宙というものの大きさを考えてみなくてはならないのではなかろうか。巨大な科学技術の成果に圧倒され、ただ浮かれていると、意外な落とし穴におちこむかもしれない。
 宇宙時代を迎えた以上、宇宙がどういうものかを考え、科学に頼るべきこと、科学の限界、新しい視野の展開を、真剣に検討しなくてはならぬと思う。
 周知のごとく、地球と月との距離は、三十八万キロである。アポロ11号では、七十数時間で到着した。もし、同じ宇宙船で、地球のすぐ外側の軌道をめぐる火星に到達するには、九カ月ちかくもかかることになる。また、最も外側の惑星である冥王星に到着するには、実際には、幾十年もかかってしまうのではなかろうか。……月と地球の隔たりなら、光は一・三秒で届くので、地上との通信には支障がないが……冥王星までくると時間差がずっと開いてきて、通信のために、往復十数時間もかかってしまうと聞く。
 もし、太陽系を飛び出して、お隣の恒星まで行くとなると、そんな比ではあるまい。光で四・三年、──現在の宇宙船では、全速で飛ばしても、十万年以上もかかるという。十万年も昔といえば、人類は、まだネアンデルタール人ぐらいの段階であることを思えば、大変な時間である。通信には、往復九年もかかるというから、もはや地上との応答も無理であろう。
 最も近い恒星すら、このような遠距離にある。まして、夜空に輝く星は、たいていはその光が、数十年、数百年、数千年も経て地上に到達しているのだ。銀河系と呼ばれる私たちの小宇宙には、このような星が、一千億、乃至二千億個もあるという。銀河系宇宙自体の直径も、実は十万光年という膨大なものである。しかも、この銀河系のような小宇宙は、現在の最大の望遠鏡の届くかぎりでも、数百あるいは数千億個もあるというのだ。
2  現代の、ソビエトの代表的な理論天文学者の一人は――将来、光子ロケットが用いられるようになったとしても、人間が行って帰ってくることができるのは、せいぜい最も近い幾つかの恒星だけに限られると予想している。いわんや、人間が、銀河系外の小宇宙に達することは、いつになってもできないと断言している。
 それでは、たとえそこへ到達できなくとも……もっと巨大な性能の優れた望遠鏡ができれば、数百億年の彼方まで見ることはできるであろうか。
 実は、それも科学は否定している。現在、宇宙は膨張しており、およそ百五十億光年の彼方の星雲は、ほとんど光速でわれわれの銀河系から遠ざかっているという。そこは、宇宙のいわば地平線(宇平線)であるからだ。ゆえに、それ以上は、どんなに見ようとしても、見ることはできないと聞く。たとえ、私たちが、百五十億光年の彼方まで行けたとしても、またそれより百五十億光年先には、やはり宇平線があるにちがいない。どこまで行っても、果てしなき、広がりをもつのが宇宙なのである。
 かつて、アインシュタインは、宇宙空間は曲がっており、有限であるが、果てがないという閉じた宇宙を想定した。……有限であるが、果てしがないというのは、ちょうど、球の表面積には、限りはあるが、円周や球の表面をいくら行っても、これが終点だという果てがないことになぞらえられるだろう。
 アインシュタインは、この考えを宇宙に適用したのである。つまり、宇宙に含まれる物質やエネルギーには限りはあるが、果てがないという、四次元空間を考えたのであった。
 たしかに、空間というものは、そこに物質(質量)があるとゆがめられる。事実、光の波は、天体の側を通るとき曲げられることが確認されているからだ。しかし、だからといって、宇宙が閉じているという確証は決してないだろう。逆に、馬の鞍のように、どこまでも開いていく面をもった、三次元の空間も考えられる。そうなれば、閉じた宇宙同様に、開いた宇宙というものも、十分想定できるわけである。
 最近のNASA(米航空宇宙局)の発表によると、天文観測衛星で撮影した天体写真によると、銀河系外の小宇宙が、これまで考えられたよりもずっと明るい紫外線を発しているとのことである。それが、もし事実ならば、小宇宙間の距離は、もっとずっと離れていることになり、宇宙は、もっと巨大なものとなろう。ことによると、閉じた、有限の宇宙でなく、開いた、無限の宇宙であるという可能性も出てくる。
 あるいは、宇宙というものは、これまで述べた宇宙像よりも、想像も絶するほど大きいのかもしれないともいわれる。つまり、科学でとらえている宇宙は、大宇宙よりみれば泡のようなもので、隣では、収縮している泡宇宙があるのではなかろうか――。そして、膨張し発展している宇宙、収縮し老化している宇宙等を、無数に含む大宇宙そのものは、全体として、どこまでいっても不変ではないかというものである。
 また、現在の宇宙は、膨張する以前には、収縮していたのではないかともいわれる。その収縮のエネルギーが、膨張のエネルギーに転化したのである。このようにして、宇宙は、膨張、収縮を繰り返しつつ、無限に持続するのではないかというのである。
3  とまれ、どのような宇宙を想定したとしても、科学が対象とする宇宙は、宇平線をもち、百五十億年前に起源をもつ限られた宇宙であることは確かのようだ。それ以上を探究するのは科学の分野ではなく、むしろ哲学の分野なのかもしれない。
 私は、宇宙というものは、本来、哲学の世界であると考えている。その哲学の基盤のうえに、実証科学の認識が進んでいくものと、今でも思っている――。
 人間というものは、元来、物事を認識し、分析し、これを総合するだけではなく、物事を深く思考し、想像し、直観によってとらえていく存在でもありうると考えている。
 つまり、宇宙を開いていく眼は、人間の内にあるものを開いていく姿勢でもあろう。しょせん、宇宙時代の始まりとは、科学と哲学とを統一的にもった、人間英知の時代の始まりであるとも思えてならない。

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