Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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信仰と理性  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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3  キリスト教の場合、古代末期から中世まで、教会が唯一の学問の中心であり真理探究の場であった。そこでは、神とは真理の別名であり、理性の全き体現者であるとすら考えられた。少なくとも、当時の知的水準では、両者の間にギャップは露呈されていなかったからである。あくまで学問は神学の婢であり、この支配|服従の関係は微動だにしなかった。
 ところが、中世末期にいたって、一方で旧来の神学の絶対無謬の原理がくずれ、他方、ルネサンス運動による学問の発達によって、この支配|服従の関係が、大きく揺らぎはじめたのである。神学、信仰と、学問、理性との相克が激化したのは、このころからといってよい。
 このことは、信仰が理性と背反するといっても、それは、理性がどこまで真理を究めたかによって決まってくるものであることを物語っている。もとより、理性が発達したからといって、矛盾を生ずるような信仰が、信ずるに足りるものでないことは言うまでもなかろう。
 ともあれ、理性というものは、なにか不変の当体があるわけではなく、究明された知識と理論体系の集積が、理性と通称されているものの中身であるともいえる。たとえば、プトレマイオス天文学が絶対とされていた中世の時代には、この地球が太陽のまわりを回っているなどということは、およそ理性に反することであったにちがいない。
 さらに、ニュートン物理学を基準にしてみた場合には、アインシュタインの相対性理論や、現代量子物理学は、理性で考えられないことといえよう。
 今日、科学知識を身につけた人が、理性として拠りどころにしているものの、それが、どこまで正しいか、いつまで通用するかは、はなはだ疑問である。
 科学がさらに発達し文化が進んだとき、いま真理と信じているものも、百八十度転換してしまうかもしれないのだ。現代では、ありえないと思っている事象が、いつのまにか、子供でも知っている常識になってしまうことも、十分に考えられる。
 私は、理性そのものに対する不信を述べているのでは絶対ない。ただ、現代人の理性への盲信という偏頗を指摘しておきたいだけである。そこに初めて、信仰と理性の正しいあり方に対する、英知の眼が開けてくると信ずるからである。

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