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日蓮大聖人・池田大作

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信仰と理性  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  パスカルの『冥想録』に「人々は宗教を軽蔑している。宗教を嫌い、宗教が真実であるのをおそれている。これを正すには、まず宗教が理性に反するものではないことを、示してやらねばならない」(田辺保訳、教文館『パスカル著作集Ⅵ』所収)という一節がある。
 十七世紀に書かれたこの一文は、三百年の歳月を経た現代にもなお、人々の宗教に対する態度を見事に活き写した名文として、少しも輝きを失っていない。
 パスカルの生きた時代といえば、宗教戦争のようやく終熄した時代である。宗教のためにおびただしい血を流したのちに、おそらくその反動として、宗教に対する嫌悪感が人々の心を覆いはじめていたのであろう。
 現代の宗教不信は、このころに始まった宗教への反感がそのまま尾を引いて、今日にいたったものとみることもできよう。その意味では、パスカルの言葉が、生き生きとしたリアリティーを今なお保っているのも、当然のことかもしれない。
 いずれにせよ、現代人の宗教に対する態度は、一般的にいって、軽蔑と嫌悪とある種の畏怖に覆われていることは事実だ。その最大の根拠こそ、信仰とは、根本的に非科学的であり不合理なものであるという“確信”にある。皮肉な言い方をすれば、そのように、その人は“盲目的に信じている”のである。
 私が、あえてこのような表現をするのは、もとよりある宗教の信仰は、決して理性に反するものではないと信じているからである。たしかに、大部分の宗教が、非科学的と非難されてもやむをえない存在であることを、十分に認めたうえでの話である。
2  現代人の宗教に対する考え方は、卑近な譬えでいうと、一度サギにかかった人が人間すべてに対し懐疑的になり、もうだれも信じないというのと同じであろう。一人にだまされたからといって、すべての人を疑うのはあまりにも寂しいことだ。なるほど、そこまで徹底して疑えば、二度とだまされることはあるまい。しかし、人間同士の信頼から生まれる美しい心の潤いを失ってしまったこの人は、それ以上の、おそらく何ものにも代えられない、大事な人生の宝を失ったといえまいか。
 信仰を捨てた現代人は、たしかに、二度と怪しげな宗教にだまされることはないだろう。それと同時に、崇高な正しい信仰によって初めて得られる心の豊かさ、人生への確信と歓喜も、ふたたび味わうことがないにちがいない。現代を覆っている人間性の喪失や、モラルの低下といった現象も、この間題と深いつながりをもっているように、私には思われてならない。
 宗教の提示するものは、単純明快に理性で割り切れるものではない。そこには、かならず理性の範疇を超えた領域がある。信仰を不合理なものとする先入観を植えつけた本源が、このあたりにあったのであろう、ということも、容易に察せられるところである。にもかかわらず、少なくとも理性で判断できる範囲では、やはり理性の分別にかなっていることが、正しい宗教の要件ではあるまいか。
 信仰は、生命全体の姿勢の問題である。そこには、心の深奥にある感情や直観的英知の原理も、すべてが包含される。理論だけでは信仰にならないし、感情だけでも信仰にならない。もちろん、行動だけの形式主義でも、本当の信仰とはいえない。
 全的生命をかけたものが信仰である以上、理性は、当然その一部分を構成するものでなければならない。つまり、信仰するうえにおいて、理性には目隠しをして、黙らせておくという行き方は、信仰のあるべき姿ではありえないのである。
 過去の宗教は、ほとんどが理性を抑圧することによって、教義の神聖を守る常套手段としてきた。みずから省みて矛盾のない宗教のみが、理性の働きに豊かな泉を提供し、逞しき活力をもたらしてきたといえまいか。
 この信仰と理性の関係を、より正しく知るためには、もう少し詳細に観察しておく必要がある。
3  キリスト教の場合、古代末期から中世まで、教会が唯一の学問の中心であり真理探究の場であった。そこでは、神とは真理の別名であり、理性の全き体現者であるとすら考えられた。少なくとも、当時の知的水準では、両者の間にギャップは露呈されていなかったからである。あくまで学問は神学の婢であり、この支配|服従の関係は微動だにしなかった。
 ところが、中世末期にいたって、一方で旧来の神学の絶対無謬の原理がくずれ、他方、ルネサンス運動による学問の発達によって、この支配|服従の関係が、大きく揺らぎはじめたのである。神学、信仰と、学問、理性との相克が激化したのは、このころからといってよい。
 このことは、信仰が理性と背反するといっても、それは、理性がどこまで真理を究めたかによって決まってくるものであることを物語っている。もとより、理性が発達したからといって、矛盾を生ずるような信仰が、信ずるに足りるものでないことは言うまでもなかろう。
 ともあれ、理性というものは、なにか不変の当体があるわけではなく、究明された知識と理論体系の集積が、理性と通称されているものの中身であるともいえる。たとえば、プトレマイオス天文学が絶対とされていた中世の時代には、この地球が太陽のまわりを回っているなどということは、およそ理性に反することであったにちがいない。
 さらに、ニュートン物理学を基準にしてみた場合には、アインシュタインの相対性理論や、現代量子物理学は、理性で考えられないことといえよう。
 今日、科学知識を身につけた人が、理性として拠りどころにしているものの、それが、どこまで正しいか、いつまで通用するかは、はなはだ疑問である。
 科学がさらに発達し文化が進んだとき、いま真理と信じているものも、百八十度転換してしまうかもしれないのだ。現代では、ありえないと思っている事象が、いつのまにか、子供でも知っている常識になってしまうことも、十分に考えられる。
 私は、理性そのものに対する不信を述べているのでは絶対ない。ただ、現代人の理性への盲信という偏頗を指摘しておきたいだけである。そこに初めて、信仰と理性の正しいあり方に対する、英知の眼が開けてくると信ずるからである。

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