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日蓮大聖人・池田大作

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日本人の味覚  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  味覚の修練は、実に多方面の条件がそろって初めて可能となる。たとえば、食物の材料が豊富に手に入るということである。日本人が、味覚に対して敏感であるのも、多分に気候や地形のたまものではないかと考えられる。
 狭くて細長い日本列島。そこには、いたるところ、山海の珍味に恵まれている。しかも、四季の激しい変化が、これに多彩な色どりを与えてくれる。
 材料がいかに豊富で多様でも、それをどう味つけするかというコツは、それを伝えゆく社会機構がととのっていなければ、一代限りで終わってしまう。
 それは、一家における女性の役割であり、祖母から母、母から娘へ、または 姑から嫁へという女性の系譜のなかに、無形の文化として伝えられてきたのである。
 封建的……と、非難された日本の家族制度は、たしかに姑の嫁いびりなど好ましからざる現象もあった。だが、もとより、すべての姑と嫁が、不倶戴天の敵となったわけではないし――厳しい姑のしつけが、一から十まで、嫉妬や憎悪でなされたわけでもなかったろう。むしろ、そうしたなかに、その家庭にだけ伝わるさまざまな習慣や生活の知恵ともいうべきものが、旧い世代から新しい世代へと、伝えられていったのではなかろうか。
 大きい目でみれば、それは、歴史の表面にあらわれることはないが、庶民の日常生活を形成した偉大なる文化だったともいえる。女性は、家庭という狭い世界に閉じこめられながらも、女性でなければできない大切な役目を果たしてきたのである。
 いかなる社会、いかなる世界であれ、そこに、かけがえのない存在として認められたときにこそ、真の人生の喜びと充実感があるといえまいか。
3  私は、なにも封建的な家族制度の復活を望むものでは絶対にない。ただ、それが果たした功績も、正当に評価されて然るべきであろうと、考えるだけである。
 ――何になるにせよ、一人前になるには修行が必要である。理髪師、調理師、ジャーナリスト、法律家等々みな、然りである。主婦だけその例外ということはありえないはずだ。修行するには、当然、師匠ないし先輩がいなければならない。主婦にあっては、姑が、最も手近な師匠ともなる。それを拒否しているかぎり、本当の修行はできない。
 もっとも、これは現実問題として、住宅事情などの障害があって、望んでも叶わぬという場合も少なくない。しかし、もし客観的な事情がととのっているなら、主婦たるべき若い女性は、求めて姑と同居するのが自然であるように思えてくる。姑たる老人も、自身の習い伝える伝統の数々を、後世に残すため、誇りと自信をもって嫁に教えるべきだと思う。
 たしかに料理学校や料理の本は、さまざまの料理法を教えてくれる。しかし、それらは「お料理」であって、日常の家庭の味ではない。本当の庶民の「味の文化」は、活字や写真や電波のみでは、習えるものではないだろう。肌の触れ合いと、舌での味見によって、習い伝えられるものだ。
 そうした修行を拒否した若い主婦がいきつくところは、結局インスタント食品であり、デパートやスーパー・マーケットに並んでいる出来合いの「おかず」である。それらの多くは、人工着色剤が使われ、化学防腐剤が加えられている。これが、健康に有害だとなると、いったい、何を夫や子供に食べさせればよいのかといって、嘆き、あげくは食品会社や政府を恨むことになる。
 先にも言ったように、住宅の事情やなにかで、姑と一緒に住みたくとも、思い通りにならぬ人も多かろう。(時代の波として、住みたくない人も多いと思うが)そういう人は、せめて、ときどき姑のところへ行って教わるなり、あるいは、近所に、お年寄りの知り合いをつくって、せっせと行き来することだ。
 夫のためによき妻となり、子供のために賢明な母となる道も、近ごろ盛んに書きたてているセックスなどの問題ではなく、――食衣住の問題への、真剣な研究心であろうと私は思う。
4  ある口の悪い評論家が、主婦のことを、三食昼寝つきの永久就職だといったそうである。主婦を職業ということは、侮辱的だと叱られるかもしれぬ。しかし、職業と心得るぐらいの熱意と研究心をもって取り組んでいけば、夫が、他の女性のもとへ走ったり、離縁されることなどもないかもしれぬ。子供からも、本当の意味での信頼と愛情とを勝ち取ることができるのではあるまいか。
 男性の大部分が求めているものは、レストランで出すような「料理」ではない。子供のころから親しんだ野菜の煮物、魚の煮つけ、味噌汁、漬け物等々の「おふくろの味」であろう。 
 そこに、彼は「家庭」の安らぎを見いだし、活力を培うことができるのである。最近は、家庭でこの味が味わえなくなったので、そういうものを専門に扱う料理屋が増え、大繁盛をしていると聞く。
 日本人の味の伝統は、こうして急速に衰亡しはじめている。その一方で、日本の微妙な味の変化が、アメリカなどで好評を博し、求められはじめているというのも皮肉である。
 そういえば、米も近ごろは、ひどく味がおちた。古米、古古米という余剰米問題も一つの原因ではあろうが、聞くところによると、品種そのものが、農薬や機械で人手をかけず育つものにかわり、そのために味がなくなったのだという。
 野菜やトマトなどの類も、促成栽培のためか、近ごろは自然の味が薄れてしまったように思われてならない。山海の珍味をそのまま食卓に提供できるよう、今一度、考えなおす必要があるようである。
 ともあれ、長い歴史の積み重ねによって築かれてきたものも、失うのは一瞬である。しかし、ひとたび失ったものを元にもどすには、築いてきたと同じ歴史の経過が必要とされるにちがいない。
 日本人の多くは、特に中年以上の人々は、まだ、この伝統を見失ってはいないはずである。味覚を単なる食欲と同一視して、たかが食い物ぐらいのことと軽んじてはならない。そこに、かけがえのない庶民の文化の伝統があることを、われわれ日本人は、改めて考えなおしたいものである。

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