Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

子供と遊び  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  東京をはじめとして、大都会のなかで、子供たちが遊ぶ姿を見かけることは、きわめて稀になってきた。――戦後の住宅事情でやむをえず、あるいは生活水準向上のために子だくさんの家庭が減ったことも、事実であろう。だが、それだけではないようだ。
 たまに、朝の通学時間などに、小学校の近くを通りかかったようなとき、大勢の子供たちの登校していくのにぶつかる。ふだん、これだけの子供が、どこに影をひそめているのかと、いささか不思議にさえ思えることが、ままある。
 私の子供のころは、羽田のあたりは、まだ一面、田んぼや畑が広がっていた。そして、大森の海岸も、美しい波が打ち寄せていた。広々とした自然のなかで、小鳥や魚、昆虫などと親しみながら、私たちは伸びのびと遊びまわることができた。
 自然のうちに、腕白グループができていった。やることは、たわいのない遊びであったが、そこに、さまざまな子供らしい発想があった。知恵比べがあり、ときには忍耐を要することもあった。仲間同士――ときにはケンカをしたり、仲直りしたり、あるいは、ソリの合わないだれかれの、仲介の労をとったりもした。そこには、大人の世界とは違った、子供だけの世界があった。
 現代の高度産業社会は、そうした本然的に生まれる子供の世界を、どこかに奪い去ってしまっているように思えてならない。子供たちは、学校が終わると家に閉じこもって、受験勉強のために、机に向かわされ、あるいはレッスンに通わされる。せいぜい気晴らしといっても、テレビを見るのがやっとのようだ。
 しばしば指摘されるように、現代っ子のなかには、大人と赤ん坊とが、奇妙に同居している。それも無理はない。テレビのおかげで、大人の世界のことが、具体的なイメージとして脳膜に写されてくる。そうした、一つ一つの映像やセリフが、互いの脈絡や体系的な裏づけなしに、それ自体として刻みこまれていく。それが、なにかの機会に、大人っぽい発言や、ませた行動として出てくるのであろう。
 かつてのような、大人の世界とは別の、子供の世界というものは、もはや存在しなくなっている。子供にとって最も身近なものは、同じ年ごろの子供ではなく、両親でありテレビである。そのままいけば、子供が、促成栽培に似た、不自然な成長をしていくのも道理というものだ。
 考えてみると、子供だけの別天地をつくり、そこで、さまざまな工夫をこらし、ケンカをし仲直りしていくことは、生命の法理にかなった自然の育ち方であるまいか。そのなかでこそ、体力も鍛えられるし知恵も磨かれていく。社会生活のルールも身についてくるし、独創性もつちかわれる。
2  もとより、子供の世界とて、両親や学校や社会と無関係になるわけはなかろう。――それは、子供らしいやり方と、子供に最もふさわしいスピードで吸収されていくことは、言うまでもない。
 大事なことは、子供の自主性、主体性を重んずることである。それなのに、現在は、子供たちの生命の内側から育成することを忘れて、その最も大事な場を奪ってしまったのだ。現代っ子に与えられた――テレビ番組や、絵本や、マンガや、ゲームなどは、すべて、大人がつくったものである。
 したがって、それは、あくまでも大人の眼から見た子供の世界であろう。あるいは、かくあれかしという大人の注文でしかない。
 日本は、子供の天国だと、よく言われる。たしかに、子供につきっきりの両親の過保護ぶりは、目にあまるものがある。それが子供のために、果たしてよいことかどうか、私には、はなはだ疑問である。
 子供の付き合いが、大人に限られている場合、子供は甘えることしか覚えない。大人は、どうしても、弱い子供に対して、保護意識が先に立つからである。子供と対等に付き合えるのは子供しかない。この、対等の子供と付き合って、初めて子供は正常な人間関係を学ぶことができるのではあるまいか。
 一つのことを考えるにも、そばに甘えられる大人がいれば、自分の頭をいためるより、教えてもらうほうが手っとりばやい。子供同士の間になると、自分で考えざるをえないし、仲間より、少しでもよい知恵を出そうと、競争意識もわいてくる。それが尊いのである。
 では、なぜ子供の世界が奪われたか、この点について考えてみたい。いわゆる自動車文明の異常な発達によって、道路が子供の遊ぶ場でなくなったことも、一つの原因であろう。また、テレビの普及が子供を家庭内にしばりつけていることも、一つの原因として指摘できるかもしれない。
 さらに、生活事情、住宅事情が、かつてのようにたくさんの子供を生み育てることを不可能にし、子供の数が総体的に減っていることも事実であろう。それらは、一つ一つ、いずれも現代社会の抱えた大問題である。
3  だが、私は、最も重大な原因は、子供に対する大人のエゴイズムではないかと思う。子供向きのテレビや絵本やマンガも、その底流にあるものは、売れさえすればよいという商業主義にほかならない。本当に子供への愛情から出たものが、果たしてどれほどあるだろうか。
 これらは、子供を食い物にした“エコノミック・アニマル”といえるが、エゴイストはそうした商売人ばかりではない。実の親さえも、自分本位にしか子供のことを考えなくなっているように思えてならない。その典型的な例が“教育ママ”である。
 そういえば、うるさい“教育ママ”を、怪獣になぞらえて“ママゴン”という呼び名が、子供たちの間に流行った。PTAの母親仲間や隣近所のなかで、自慢したいために子供を抑えつけ、しばりつけ、勉強にレッスンに鞭うつ母親の本性は、まさに怪獣に等しい。ママゴンとは、よく言ったものだ。
 岩にさえぎられた苗木は、まっすぐに伸びることはできない。かといって、温室で育てたものは早く生長するが、風雪に対する抵抗力が弱いものである。伸びのびと自由な空気のなかで、しかも、自然な試練のなかに鍛えられていくことが、本人にとって、最も幸せな道ではないだろうか。
 すべてが、これから形づくられていく子供にとっては、遊びといっても単なる遊びではないし、まして時間の浪費などでは断じてない。子供同士の付き合いのなかに、人間として、欠かせない社交性を身につけ、社会への眼を開いていくのである。
 ときには、いたずらをするのも結構である。たとえ叱られたとしても、それが善悪を判断し正義というものを考える手だてになれば、かけがえのない人生経験ではあるまいか。学校でも家庭でも教えてくれない貴重な人生の学問を、子供は自然のうちに学びとり、血肉としていくにちがいない。
 しかるに、そうした機会もなく、家庭に閉じこめられ知識を詰めこむことに汲々として大きくなった子供は、どうなることだろうか。小学校から、中学、高校と進んで、大学に入り、ようやく“ママゴン”の脅威から解放される。若いのだから、自由を謳歌したいのは、当然である。ところが、貴重な人間形成の時期を逸し、善悪の判断や自制力を身につけていないがゆえに、いわゆる無軌道路線を暴走することになる。
 それが、十歳ぐらいまでの子供ならば、悪童のいたずらとして、許されもする。しかし、ハイティーンないし二十歳前後ともなれば、いたずらのつもりでやったことも、犯罪になりかねない。
 私は、昨今、青少年犯罪が増大し、悪質化したと憂えられているが、その大部分は、こうしたたわいもない出来心が仇となって、いつのまにか大きな犯罪行為になっていったものだとみている。その原因をたどっていくならば、罪は、青少年にのみあるのでは決してなく、幼少年期の大事な人間形成を、エゴイズムと怠慢によって歪めた、親や教師、そして、政治家にあることが判然とするような気がしてならない。

1
1