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日蓮大聖人・池田大作

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主婦の仕事  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  戦後二十五年――太平ムードの世の中で、最も大きい変化をみせたのは、なんといっても家庭のなかでの生活様式である。いわゆる家庭電化製品の氾濫により、主婦の労働は、見違えるほど簡易化されてきた。
 以前は、どこの家にも大きなカマドがあった。そして、薪に火をつけフウフウと火吹き竹で風を送りながら、煮炊きをしたものである。そのため、主婦の一日の仕事は、太陽の出るのと同時か――それ以前から始まった。
 主人は勤めに出る。
 子供たちは学校に行く。
 その朝食をとらせ送り出したあとは、洗濯、掃除と山のごとくに仕事がひかえている。どちらも、背をこごめ、身心を酷使する重労働である。着物の繕い、寒い冬のためのセーター、手袋なども、多くの主婦は、自分の手で編んだ。
 夫にせよ、子供にせよ――こうした、主婦の重労働による汗の結晶なくしては、食べるものも着るものもなかったといってよい。たしかに、家庭内の婦人の地位は社会的に低くみられていたし、なによりも辛い仕事の連続であったかもしれぬ。だが、外の社会ではどうあれ、一歩、家庭のなかに入れば、主婦は、まさに他にかけがえのない大黒柱であり、太陽であった。
 現在はどうか。
 一定の時刻になると自動的に、スイッチの入る電気炊飯器のおかげで、主婦がかりに寝坊しても、御飯が炊けていく。部屋は、電気掃除機で、ただ、なでまわすだけできれいになっていく。洗濯機は、時間をセットして汚れものを放りこんでおけば、きれいに洗いあげ、すすぎ、脱水までする。
 セーターなどの毛糸の編み物も、主婦が、手間をかけて、丹念に編み上げるなどという光景は、ほとんど見受けられなくなってしまった。下着のほころびでさえ、一つ一つ直しているより、さっさと捨てて新しい物を買うご時勢である。
2  最近のテレビのコマーシャルを見ていると、インスタント食品の占める比率が圧倒的に大きい。おもな消費者は、独身男性であろうが、なかには主婦も、手軽にインスタントで済ませる場合も少なくないらしい。こうなると、夫にしても子供たちにしても、主婦というものの有り難さは、あってなきに等しいものとなってこよう。
 私は、今日の主婦労働軽減の風潮を、悪いというつもりはさらさらない。煩瑣で過酷な労働から解放され、より美しくより明るくなり、その力が、社会的な広がりをもって、社会変革の一翼を担っていけるようになることを心から期待している。
 だが――遺憾ながら、現状においては、その結果は決して良好とはいえない。家庭のなかでの、親子、夫婦の結合が、きわめて薄くなり、離婚がいとも気軽に行われるのも、一つには、ここに原因があるのではあるまいか。主婦労働の軽減が、主婦自身の実存的重みをも、軽減化しているといったら言いすぎになろうか。
 つまり、かつては、家庭内の一切の物が、主婦の真心こめた労働の反映であり、そこに放射状に結びついていた。それが、現代では、巨大な食品会社や、衣料企業の織りなす流通機構の一末端にすぎなくなってしまった。食事の味つけにしても、セーターの好みにしても、靴下の強さにしても、主婦の個性とはまったく、関係がなくなってきているのである。
 一つの社会の中で、重みをもつということは、それだけ責任が重くなり、物心両面にわたる負担が増すということであろう。――戦後の女性の、地位の向上という問題では、この点の考え違いがあるように思えてならない。労働が軽くなり、ドラマやニュース・ショーを見ても、まだ時間が余る。この退屈の悲鳴をあげるまえに、これと正比例して、自分の主婦としての、実質的な重みもしだいに軽くなっているのだということを、じっくり一度、考えてみる必要がありそうである。
 家庭における主婦の地位の向上ということは、結局、この事実への反省と思索、そして、ありあまった時間を、いかに有効に活用するかという実践の結果として、もたらされるものではないだろうか。
3  しばしば、戦後の日本の民主主義は、“与えられた民主主義”であるといわれる。同じことは、婦人解放の問題についてもいえよう。それは、単に理想が示されたにすぎないのであって――その理想に向かって、どれだけ進むかは、婦人一人一人の努力にかかっている。にもかかわらず、理想を見いだしただけで、あたかも、すでに現実としてとらえてしまったかのように錯覚しているのでは、永久に理想を現実化することはできまい。
 言うまでもなく、これからの婦人を、かつての封建時代のように、家庭のなかに閉じこめることはもはやできないし、また、そんな逆コースが許される道理もない。開かれた道は、いかにすれば女性たちが、その余剰の時間をより大きい目的のために、価値的に生かしていくかということであろう。
 家庭自体、すでに、閉じた社会ではありえなくなってきている。各個人が、さまざまな形で、家庭の外の社会組織に結びついている。そのためにこそ、親と子、夫と妻、兄弟等の間に、かつて、みられなかった考え方の食い違いが拡大しているのではあるまいか。
 家庭という紐帯よりも、学校の友だち、職場、組合といった有形無形の社会的な紐帯のほうが、はるかに、強力になってしまったともいえる。
 それでは、家庭というものは、単に、親子、兄弟という、血でつながった人間同士の、仮の社会にすぎないのだろうか。
 家庭が、社会の断層の縮図と化して、鋭い対立と根深い憎悪の場となってしまっている場合もないわけではない。しかし、どんなに互いに憎しみあっているにせよ、どうしても断ち切れない、最後の結合力をもっているのが、家族というものだ。
 してみれば、社会の全般にわたっている、断絶の谷間を埋める最後の望みは、この家庭にこそ、あるといっても過言ではあるまい。そして、その家庭のなかで、子供にとっては、母親であり、すでに旧世代に入っている男性にとっては妻である、一家の主婦こそ、新旧の世代の断層を埋め、つなぎあわせる絆となっていくのではあるまいか。
 物質的、あるいは肉体労働的には、たしかに主婦の責任、負担は、軽くなったと思う。しかし、こうした意味での精神的、知的な責任は、今後もますます増大していくであろうと、私は考えている。そして、主婦の占める地位の高さも、これにともなって、いよいよ向上していくにちがいない。
 さらに、付け加えていえば――社会の中でも、女性の独特の考え方や、感情といったものは、対立や混乱を収拾するのに、きわめて重要になってこよう。そのためには、育児などの煩雑な家事から、解放された女性に対し、十分に社会的進出の道が開かれる必要がある。
 とかく、感情や愛情を無視して、闘争本能と冷酷な理性で、すべてに対処しがちな男性に比べると、いわゆる女性的な行き方は、まだるっこい気がする場合がないでもない。だが、非常に、緊張した事態などにさいしては、かえって、そうしたまだるっこさが、悲劇から人類を救い、平和を守ることに役立つのではあるまいか。
 いな、そればかりではない。
 子供を育て、生命の尊さをみずからの骨身に沁みて知っている女性こそ、生命軽視の風潮の強い現代にあっては、より一層、強いリーダーシップをとって活躍していただきたいものである。

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