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日蓮大聖人・池田大作

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新しい家庭の考え方  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  月並みな言い方であるが、家庭は、人間存在の基盤であり、心のオアシスである。
 ゲーテの言うように「その世界が家庭の内部にある人は、幸いである」(『ゲーテの言葉』高橋健二訳、弥生書房)という原理は、いかなる社会にあっても、いつの時代になっても、永遠に変わらぬ鉄則であろう。
 とはいえ、家庭というもののあり方が、今日、大きい転換期にさしかかっていることは事実である。特に、現代の先進国の迎えている高度産業化の波は、旧来の家族制度をもろくも崩壊させている。しかも、外部からのこの荒波ばかりではない。家庭は、人間一人一人に芽生えた、自由と個人主義の自覚によって、内からも崩壊の力を受けている。
 周知のように、現代の産業社会は、伝統的な家族経営によって成り立ってきた職業を、いちじるしく圧迫している。家族経営の商法は、大企業であるデパートやスーパー・マーケットには、とうてい太刀打ちできない。生産にたずさわる中小企業も、次々と巨大企業の下請けとして傘下に組み込まれ、家族中心の経営は許されなくなってしまった。
 農業もまた、ほとんどが、いわゆる兼業農家となっていく。家族が、そろって、田畑で働いている田園風景は、見うけられなくなってしまった。近郊農家では、都市化の波に押されて、子供たちはサラリーマンとして都心へ勤めに出ているし、他方、遠隔地の農家でも、多くの男性は、季節労働に従事している。
 これに加えて、教育の普及も、家庭の団らんを稀な光景にしている原因の一つを占めている。上級学校への進学をひかえた子供たちは、家族と和やかに語り合う時間を惜しんで、受験勉強に懸命とならざるをえない。そして、大学に入学すると、ほとんどが下宿生活に入っていく。
2  結婚という問題に対する考え方も変わった。かつては結婚は、家庭と家庭の結合という面すらあった。少なくとも嫁は、夫はもとより、夫の両親、ときには夫の兄弟姉妹のためにも尽くさなければならないものと考えられた。夫と妻という個人は、家族のなかに埋没していたのである。
 今日の日本でも、形式だけは、そのまま残っている。ちなみに、結婚式場に掲げられた名札を見るがよい。そこでは結婚式を挙げるのは、〇〇家と××家であって、太郎君と花子さんではない。しかし、実質的には、家族と家族の結合という面は、もはや影をひそめ、披露宴の席では、両家の家族もまったく知らないような新郎、新婦の友人たちが、次々と立って祝辞を述べ歌を披露したりする。
 結婚後も、大部分のカップルは、親とは別の家に、二人だけの家庭をつくる。かりに、ゆくゆく親の跡を継ぐと決まっていても、最初はわざと外に借家を求める場合が多い。そこには、明らかに、家族の結合から個人の結合への根本的な意味合いの転換がみとめられる。
 つまり、家族制度、家庭のあり方という問題についての現代の状況は、慣行や伝統的な制度を中心とした家庭から、個人を中心とする家庭への過渡期に立っているとみることができる。これが始まったのは戦後の民主化によってであるが、その過程はまだ終了していない。
 戦後二十数年――経ったといえども、何百年もつづいて浸透してきたものが、そんなに簡単に切り替わる道理はない。現実に、今日なお、三十歳以上の年代の人々は、戦前からの家族観のもとに人格形成をされてきたわけで、いわゆる家庭をもっている人たちは、すべてこの世代に属しているといえまいか。
 なによりも古い理念や体制が、完全になくなるためには、新しい理念と体制が、確固たる安定性をもってあらわれなければならない。家庭が、人々にとって大きい心の拠りどころである以上、その考え方は時代遅れだから捨てよといっても、捨てられるものではないことは、当然であろう。
 他方、それに代わるべき新しい理念もないまま、古い理念を捨て、また、そうした古い考え方をもつ親たちを嫌って、古い家を去った人々は、心の拠りどころを失って、寂しく、荒涼とした人生を送らざるをえまい。昨今、社会問題にまでなっている蒸発事件や離婚の増加、あるいは、若い母親の幼児遺棄の問題などは、その深い淵源に、家庭の理念の欠落が原因しているように思えてならない。
3  たしかに、家庭は、もはや個人を絶対的にしばりつける鎖をもっていない。だが、私は、家庭というものを、そうした個人を束縛するものとみる考え方から脱却できないところに、誤りの本源があると思う。そのような人々にとっては、ともかく縛りつける鎖が取り払われたということしか目に映らない。あるいは、これまで縛られていると思いこんできた妄想を打ち破ることこそ、自分の戦いなのだという気にさえなる。
 結婚はしたものの、それによって自分が負わねばならぬ責任や、義務にまでは思いをいたさない。生まれた子供も、邪魔ものでしかない。それが夫たちの蒸発や、夫婦の性格不一致からくる離婚となり、若い母親が自分の生んだ子を捨てるといった、考えられないような事件となる。古い家族制度はなくなっても、家族、家庭は現にあり、一人一人がその成員となっていることも変わりはない。ただ、新しい家庭は、あくまでも個人を基本とする結合体であり、伝統のなかからつくられた既製服でなく、自分たちでつくっていく手作りの服なのである。そのなかにおいて、個人は、外から侵されることのない権利をもつと同時に、その結合体を維持し、より豊かなものへ、楽しいものへと高めていくために責任ももたなければならない。責任ないし義務のない権利は、権利としても成り立たないものである。
 もとより、家庭というものは、権利と義務のみで結ばれたものではない。その根底には、愛情がなければならないことは当然であろう。家庭という社会は、愛情に始まり愛情に終わる、といっても過言ではない。しかし、愛情がすべてでもない。一切が、愛情で片づくわけではないともいえる。
 愛情によって結ばれた若い夫婦は、往々にして、愛情で、すべてを解決できると思いこみがちである。結婚へのゴールインまでは、それでもよい。だが、結婚したからには、それだけでは済まないことを知る必要がある。みずからの責任を全うしないで、愛情を楯に一方的に権利を押し通すのは、明らかに間違いであり、愛情の破綻を招くことになってしまう。
 権利に対して、交換価値をもつのは、義務であって、愛情はまったく別次元の概念といえまいか。それを混同して、愛情があるなら無理をきいてもよいではないかというのは、商人に向かって、自分をお得意だと思うなら、タダで品物をくれというのと同じになってしまう。商人にとっては、きちんと金を払って買ってくれるからお得意なのであり、大事にしようという気にもなるのであって、タダで品物を持っていく客は、泥棒である。
4  夫婦というものも、本来は、赤の他人だったのであり、その愛情は、相互の権利、義務の正しい行使があってこそ、保たれより深められていくのである。
 近ごろの、離婚問題の大半を占めている性格の不一致も、結局は、相互の愛情の次元の問題というより、この権利と義務の次元の問題ではないだろうか。
 夫も妻も、互いの人格の触れ合いのなかに、たゆまず向上を心がけ、相互の理解を深めていくところに、新しい家庭を支える基礎条件がある。個人が中心である以上、個々の人格の向上が、家庭の向上の基盤となるのは道理であろう。

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