Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

恋愛と結婚のあり方  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  よく、結婚の決まった男女に対して、人は「おめでとう」という。結婚がおめでたいことであるのは、ごく当たり前の常識ですらある。
 しかし、それがなぜおめでたいのか、結婚を、真に祝福すべきものとするには、本人たちにどういう心構えがなければならないかについては、先輩たちもあまり説明しないことが多い。
 くどい言い方のようだが、新郎、新婦たる男女が、共に力を合わせて一個の家庭をもち、そこに起こるさまざまの苦労に、みずから身を挺するまでにいたったその決断と成長が、めでたいという心を――「おめでとう」の言葉に凝縮したのではなかろうか。
 この祝福の本音を知らないで、結婚を、そのまま幸福のゴールと考えるから、失望、落胆におちいり、果ては互いの不満から、離婚の破局を迎えることにもなるのであろう。
 したがって、これも、言葉の使い方の問題になるが、結婚にゴールインするというのも、誤解を生みやすい適切でない表現なのである。結婚はむしろスタートと考えなくてはならない。しかも、夫は、妻と家庭に対する責任、妻は、夫と家庭に対する責任という重荷を、それぞれ背負った、苛酷なレースであると、私は考えている。
 しかも、独身時代には、親兄弟という貴重な庇護者が後ろについていて、いざというときは風雪から守ってくれた。結婚して、家庭をもつからには――直接、風雪に身をさらす覚悟が絶対に必要である。いな、今度は自分たちが、二人の間に生まれてくる子供たちのために、庇護者になっていかねばならぬのだ。これが、結婚を考えるうえでの、最も心しなければならないポイントであると、私は訴えておきたい。
 そこで、結婚の第一条件とすべき要素も、このことから必然的に導きだされてくるはずである。つまり、結婚生活は、社会の風雪や、内に起こるさまざまの波乱に十分耐えうる、夫妻の心と心のつながりがなければならないということだ。
3  夫婦というものは、言うまでもなく、もともとは血のつながりも何もない赤の他人である。それが縁あって生活の苦楽を共にし、二人の血をうけた子をもうけ、人類の悠久の歴史のなかに確固たる痕跡を残していくのである。これを支えるものは、なんといっても、互いの愛情の絆であることは当然の理だ。
 恋愛が、この相互の愛情を固めるための大事な土台であることは、今さら言うまでもない。恋は盲目であり、激しく燃え上がると、身を滅ぼす危険ももはや顧みなくなっていく。みずからの心を冷静に見極めるゆとりなど、どこかに忘れてしまうのが通例であるようだ。また、そうした盲目性を、恋の純粋さのあらわれとして、ことさら賛美する風潮も特に文学の世界には強い。
 もちろん、醜い打算や駆け引きの具に恋を利用し、美しかるべき青春を濁らせてしまうようなことがあっては、残念なことだと思う。しかし、恋の盲目に終始し、人生を誤ることは、本人にとってさらに大きい不幸である。特に女性の場合は、どうしても被害も大きく、心に深い傷をのこしてしまう結果となる。
 恋を、二人だけの秘密にしたいというのも、若い女性の心理としては分からぬでもないが、それを不幸の落とし穴にしないためには、かならず、賢明な第三者に、助言を求めるようにすることが大事であろう。そして恋をしているかぎり、自己の判断には、つねに誤りを犯すおそれがつきまとっているというぐらいにまで、自分を客観視していくことだ。
 恋愛のために、周りと折り合いが悪くなり、仕事も手につかなくなって、自身がいい加減になってきたら、その恋は本物ではない。恋するがゆえに、生命が生き生きと躍動し、仕事に張り合いが感じられ、周りの人々からも、いよいよ親しまれるようになったら、その恋は、本物であると考えてまず間違いなかろう――。
 その――どちらになるかは、恋に溺れ自己を見失ってしまうか、自己を客観視しつつ恋を生かしきっていけるかによって決まる。恋愛という滑走を経て、結婚という離陸、上昇の成否が決定される。
 恋愛と結婚の激動は、長い人生行路のスタートである。行く手に、いかなる嵐や気流の乱れがあろうと、びくともしないだけの機体整備を、飛び立つ前にしっかり、二人の力でやっておくように願いたい。

1
2