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日蓮大聖人・池田大作

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古典と現代生活  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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2  当然、ひとくちに古典文学といっても、東洋と西洋、日本と中国というように、その民族によって伝統の固有性はある。日本人であれば、日本人らしい人間観、世界観があろう。
 私が、かつて鮮やかに感銘したのは、ある作家が「もののあわれ」について、現代日本人の気質の分析からするどく描いていたものであった。『源氏物語』をはじめとするわが国、平安朝文学の「もののあわれ」の精神と生活背景が、今の日本人の生命の中に、鮮烈にえぐりだされていた。
 古典のなかに示されているものは、過去の――その時代の、人間の姿だけではない。時代を超えて伝えられる、民族の血がそこにある。
 直垂を着たのも日本人なら、裃をつけたのも日本人。時移り、現代の大都市に住む、背広のサラリーマンも日本人なら、ヒッピースタイルで街を歩む若者たちも、同じ日本人であろう。
 日本民族の特質は、外面のさまざまな変化を超越して、どうしようもなく流れている。古典文学を読むとき、人は、千年昔の主人公の血が、まごうかたなく自身の五体の中にも、強く駆けめぐっている事実を知って、驚くにちがいない。
 優れた書物が、われわれに与えてくれるものは、単なる知識でもなければ、刹那的に消えゆく刺激でもない。生きることへの自信と、人間としての英知と勇気、そして生命の尊厳への、深い畏敬の念をよびさましてくれるのである。外から、安易に与えるのではない。内にあるものを湧き出させるものであろうか。
 私の恩師の、師であった牧口常三郎先生は、よく「迷ったときは出発点に戻れ」と、教えられたと聞かされた。
 現代文明が行き詰まり、迷いの路に踏みこんだと自覚するなら、出発点に立ち戻ることが、最も確実な解決法であろうと、私は思うのである。
 さらに最近、聞いたことであるが、主として京都大学を中心とする関西の学者グループで――学問の新しい独創的な発想の基盤を求めて、仏教の原典に帰ろうという機運があるそうである。私も、仏教を学ぶものの一人として、そうした意欲的な学者グループの考え方に心から賛同するとともに、声援をおくりたい気持ちで一杯である。
3  仏教の法理は、日本民族の精神生活を支えてきた重要な柱であった。今日、現実的には、仏教はことごとく形骸化し、内容については忘れられてしまったが、そこに秘められた哲理は、現代的な思考の光を当ててみるなら、かならずその偉大さに驚嘆せざるをえないほどのものがある。ダイヤモンドといえども、光のまったくない闇の中では、輝きようがなかろう。少しでもよい、知性の光を当ててみることである。
 しかも、現代文明の行き詰まりといっても、せんじつめればヨーロッパの精神文明の行き詰まりに帰着する。東洋の仏教哲理が伝える精神文明については、いまだだれも、この現実の解決のためには試みてはいない。それを探り出し試みる舞台は、他のいずれの国よりも、まず日本でなくてはなるまい。
 日本が人類社会に貢献できる、最大にして最も崇高なる道が、ここにあると私は確信したい。

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