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日蓮大聖人・池田大作

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古典と現代生活  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  ヨーロッパの大学教育が最も重視してきたのは、ギリシャ、ラテンの古典学だと聞く。この伝統は今も受け継がれ、オックスフォードやケンブリッジなどの名門校では、ギリシャ・ラテン学の素養を、学問する者の不可欠の要素としているそうである。
 言うまでもなく、プラトンやアリストテレス、ユークリッドなどといった古代ギリシャの学説が、そのまま現代社会に生きるわけではないだろう。学問のない私には、――おそらく、学問のふるさとと言われる古典の世界にふれることにより、学究精神の基本と、人間としての姿勢を養わせることに主眼があるだろうと思える。
 古典時代からの精神的源流は、その意味においても、ヨーロッパでは、脈々と生き抜いているようである。ヨーロッパ世界でのベストセラーが、一つは聖書であり、ホメロスの詩(イリアッド・オデュッセイ)であり、さらにまた、ユークリッドの幾何学であるというのも、そうした歴史の伝統のあらわれであろう。
 少なくともヨーロッパ文明に学んだわが国の学問が、模倣的になりがちなのも、これらの源流にさかのぼり、本源的なものを吸収するまでに至っていないからだと考えられる。今、ようやく、自然科学、社会科学等の学界でも、アリストテレスなどの原典に直接にあたり、そこから、新しい学問のあり方を探ろうとする動きが芽生えているそうである。
 それは、悪くいえば、世界的に学問というものが、一種の壁にぶつかり、内には大学紛争、外には科学技術のアンバランスな発達による人間性の喪失という苦悩をかかえ、やむなく独自の道を求めざるをえなくなったからであるかもしれない。しかし、物事は、なにも――悪く考える必要はないと思う。深い反省が、本当の意味での創造的な道を開く結果になれば、それに越したことはないからだ。
 独創性を重んずるということは、ヨーロッパ世界の底流を流れる精神である。それを培ってきたのが、私は、古典を重んずる伝統だと思う。
 ――その流れの源を探らないで、流れの果てにできあがった結果のみを追うと、どうしても模倣に終始せざるをえなくなる。
 古典というものは、現代人にとってもちろん難解なものが少なくないが、表現は一般に素朴であり、ときには単調と思われることすら少なくない。科学や哲学の書にせよ、文学にしても、だいたい、そういうものであるといえる。つよい刺激を求める現代人には、少々、ものたりない面もあろう。
 しかし、それゆえにこそ、すんなりと頭に入ってくるし、容易に心にとけこみ、栄養となっていくのではなかろうか。ときにはものたりないと思いつつも、読み終わってみるとすっかり吸収され、心の糧となり血肉と化している。なお、その人の成長につれて、読み返すほどに味わいがましていく。そんな不思議な力をもっているのが、古典というものであろう。
 それゆえにこそ、幾世紀にもわたり試練に耐えつつ現代にまで伝えられてきたのであり、国境をこえ、言語の枠や民族性の相違を踏みこえて、あらゆる人々から、愛読されてきたのである。そこにあるものは、あらゆる学問の起点となる発想の原点であり、人間としての自覚である。あるいは、人間そのものへの深き観照でもある。
 なかんずく、文学における古典は、人間の本性を知るうえに、欠かすことのできない手がかりとなろう。そこには、時代的な制約ももとよりあろうが、時代を超えて変わらぬ、人間性のありのままが、見事に描きだされているといってよい。
2  当然、ひとくちに古典文学といっても、東洋と西洋、日本と中国というように、その民族によって伝統の固有性はある。日本人であれば、日本人らしい人間観、世界観があろう。
 私が、かつて鮮やかに感銘したのは、ある作家が「もののあわれ」について、現代日本人の気質の分析からするどく描いていたものであった。『源氏物語』をはじめとするわが国、平安朝文学の「もののあわれ」の精神と生活背景が、今の日本人の生命の中に、鮮烈にえぐりだされていた。
 古典のなかに示されているものは、過去の――その時代の、人間の姿だけではない。時代を超えて伝えられる、民族の血がそこにある。
 直垂を着たのも日本人なら、裃をつけたのも日本人。時移り、現代の大都市に住む、背広のサラリーマンも日本人なら、ヒッピースタイルで街を歩む若者たちも、同じ日本人であろう。
 日本民族の特質は、外面のさまざまな変化を超越して、どうしようもなく流れている。古典文学を読むとき、人は、千年昔の主人公の血が、まごうかたなく自身の五体の中にも、強く駆けめぐっている事実を知って、驚くにちがいない。
 優れた書物が、われわれに与えてくれるものは、単なる知識でもなければ、刹那的に消えゆく刺激でもない。生きることへの自信と、人間としての英知と勇気、そして生命の尊厳への、深い畏敬の念をよびさましてくれるのである。外から、安易に与えるのではない。内にあるものを湧き出させるものであろうか。
 私の恩師の、師であった牧口常三郎先生は、よく「迷ったときは出発点に戻れ」と、教えられたと聞かされた。
 現代文明が行き詰まり、迷いの路に踏みこんだと自覚するなら、出発点に立ち戻ることが、最も確実な解決法であろうと、私は思うのである。
 さらに最近、聞いたことであるが、主として京都大学を中心とする関西の学者グループで――学問の新しい独創的な発想の基盤を求めて、仏教の原典に帰ろうという機運があるそうである。私も、仏教を学ぶものの一人として、そうした意欲的な学者グループの考え方に心から賛同するとともに、声援をおくりたい気持ちで一杯である。
3  仏教の法理は、日本民族の精神生活を支えてきた重要な柱であった。今日、現実的には、仏教はことごとく形骸化し、内容については忘れられてしまったが、そこに秘められた哲理は、現代的な思考の光を当ててみるなら、かならずその偉大さに驚嘆せざるをえないほどのものがある。ダイヤモンドといえども、光のまったくない闇の中では、輝きようがなかろう。少しでもよい、知性の光を当ててみることである。
 しかも、現代文明の行き詰まりといっても、せんじつめればヨーロッパの精神文明の行き詰まりに帰着する。東洋の仏教哲理が伝える精神文明については、いまだだれも、この現実の解決のためには試みてはいない。それを探り出し試みる舞台は、他のいずれの国よりも、まず日本でなくてはなるまい。
 日本が人類社会に貢献できる、最大にして最も崇高なる道が、ここにあると私は確信したい。

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