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日蓮大聖人・池田大作

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教養と学問  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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2  人間としての力は、せんずるところ自己の専門の技術なり学問なりに、どれだけ長じているかで決まる。それがその人の生活の基盤であり、生きて社会に価値をつくりだしゆく“エンジン”に当たるわけだ。教養の有無というのは、そのうえでの、ボディーのスマートさであり、乗り心地の快適さなのである。
 したがって、教養が“総体的な完全を追求する”ことだからといって、教養の追求のみに終始することは、柱を立てないで壁だけで家を作るようなものである。エンジンを忘れて、自動車のモデルだけを問題にするようなものであろう。あくまで、自己の専門とするものが、骨組みとなり基礎とならなければならない。極端にいえば、教養が高いとか低いとかいうことは、偶然の機会から世間が下す、まったく気まぐれな評価にすぎない場合もある。本当の教養とは、その人が力いっぱいに生きたその結果として、自然と、その生命のうちから滲み出てくるものであろう。
 その意味で、私は「教養のために勉強する」といって、虚栄を追うようないき方のみをすることは、本末転倒であり、意味のないことだと考える昨今である。
 少なくとも、授業料を払って大学へ行く以上は、立派に“力”を身につけることを志すべきである。むしろ、学校の勉強とは別に、みずから時間を編み出し、自身で読書し見聞したことが、その人の本当の教養になっていくのではあるまいか。してみれば、教養を身につけるためというなら、大学のみがその場ではなく――働きながら、自分で、地道に、コツコツと本を読み、さまざまなものを見聞して、深く身につけていくことも立派な教養となろう。およそ、大学を出ても、卒業してしまうと本も読まなくなってしまうような、名前だけのインテリでは中途半端なものになっていく。
 ともあれ、人生の荒波を乗り越える闘志ももたずして、教養をうんぬんするのは、およそナンセンスである。この、人生の実践と体験によって磨かれた深い情操と、そこに貫かれ、鍛えられた、強固な意志があってこそ、幅広い知識も生きてくるのであろう。
 特に青年は、おのおのの厳しき境遇で――多くを学び、そして働き、力を満々と身につけることだ。しょせん、人生は勝負である。この真剣な生活のなかに初めて、自己が磨かれ、人格も強く、しかも豊かになっていくのだ。ある思想家が言った――浅薄な、知識のレッテルのみでは、ゴミを身につけて飾り立てたつもりでいる猿と選ぶところがない、と。
 やすやすと、よそから買って身にとってつけた“教養”ではなく、その人の生命の内側から、皮膚の下から輝きだしてくるような本当の教養を、守り育てていきたいものである。

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