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日蓮大聖人・池田大作

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教養と学問  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  教養があるということは、かならずしも、現実の生活において、力のあるなしとは関係がないようだ。たとえば、生活と関係のない読書や趣味について、何のためにするのかと聞かれると、多くの人は「教養のためだ」という。
 最近の学生、特に女性のなかには、大学へ行くのは、別段、なんらかの具体的な目的で勉強するのではなく、一人前の社会人として恥ずかしくない教養を身につけたいから、ということが少なくない。
 教養の有無は、人物の評価のための大きな基準として一般的に使われているようだ。大学を出て、知識も技術も優れていても、礼儀を知らないとか――人生の機微をわきまえないと、あの人は教養がないと酷評される。
 では、教養とは何かということになると、なかなか簡単には定義できないものである。言うまでもなく、知識も一つの大切な目安になっている。物事の故事来歴や科学知識を知ることが、非常に高く評価されることも多かろう。かといって知識がすべてではなく、情操の豊かさは、それ以上に欠かせないものである。
 そうしたさまざまな例を通して、教養というものを考えていくと、結局、それは“円満な人格”といったものになるように思われてくる。あらゆる角度から――なにか周囲に訴えかける、清々しいものをもっていること。そして、それが、人間関係を円滑にすすめていくうえで、有効に働いていくこと、これが“教養”というものの全体像ではないかと、私は考える。
 よく人格形成の基本要素として、知・情・意、が言われてきた。よって教養とは、知も情も意も、ともに豊かにそなわっているということなのであろう。その意味で、マシュー・アーノルドの示した「教養とは、われわれの総体的な完全を追求すること」(『教養と無秩序』多田英次訳、岩波文庫)とは、要を得た言葉であると思う。
 ところで、問題は、そのような総体的な人格は、どのように形成できるか、また、形成されるべきか、ということである。
 教養は、たしかにそれ自体としては、専門の技術や学問と、直接には関係のないもののようだ。では、自己の専門をなおざりにして、教養を教養として追求するところに、真の教養は得られるか、といえば、私は否! と答えざるをえない。
2  人間としての力は、せんずるところ自己の専門の技術なり学問なりに、どれだけ長じているかで決まる。それがその人の生活の基盤であり、生きて社会に価値をつくりだしゆく“エンジン”に当たるわけだ。教養の有無というのは、そのうえでの、ボディーのスマートさであり、乗り心地の快適さなのである。
 したがって、教養が“総体的な完全を追求する”ことだからといって、教養の追求のみに終始することは、柱を立てないで壁だけで家を作るようなものである。エンジンを忘れて、自動車のモデルだけを問題にするようなものであろう。あくまで、自己の専門とするものが、骨組みとなり基礎とならなければならない。極端にいえば、教養が高いとか低いとかいうことは、偶然の機会から世間が下す、まったく気まぐれな評価にすぎない場合もある。本当の教養とは、その人が力いっぱいに生きたその結果として、自然と、その生命のうちから滲み出てくるものであろう。
 その意味で、私は「教養のために勉強する」といって、虚栄を追うようないき方のみをすることは、本末転倒であり、意味のないことだと考える昨今である。
 少なくとも、授業料を払って大学へ行く以上は、立派に“力”を身につけることを志すべきである。むしろ、学校の勉強とは別に、みずから時間を編み出し、自身で読書し見聞したことが、その人の本当の教養になっていくのではあるまいか。してみれば、教養を身につけるためというなら、大学のみがその場ではなく――働きながら、自分で、地道に、コツコツと本を読み、さまざまなものを見聞して、深く身につけていくことも立派な教養となろう。およそ、大学を出ても、卒業してしまうと本も読まなくなってしまうような、名前だけのインテリでは中途半端なものになっていく。
 ともあれ、人生の荒波を乗り越える闘志ももたずして、教養をうんぬんするのは、およそナンセンスである。この、人生の実践と体験によって磨かれた深い情操と、そこに貫かれ、鍛えられた、強固な意志があってこそ、幅広い知識も生きてくるのであろう。
 特に青年は、おのおのの厳しき境遇で――多くを学び、そして働き、力を満々と身につけることだ。しょせん、人生は勝負である。この真剣な生活のなかに初めて、自己が磨かれ、人格も強く、しかも豊かになっていくのだ。ある思想家が言った――浅薄な、知識のレッテルのみでは、ゴミを身につけて飾り立てたつもりでいる猿と選ぶところがない、と。
 やすやすと、よそから買って身にとってつけた“教養”ではなく、その人の生命の内側から、皮膚の下から輝きだしてくるような本当の教養を、守り育てていきたいものである。

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