Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

学園紛争の意味するもの  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
4  特に近代日本の学問、教育は、国を挙げての富国強兵策のもとに――天皇絶対主義の信条で強烈に統制されてきた。
 戦後、天皇の権威は、否定されたとはいえ、学問の世界内部の、前時代的体質は、ほとんど変革されないままに、今日まできているといえまいか。むしろ、教育に対する政府、権力の統制は、種々の形でしだいに強化され、戦前とそれほど隔たりがないと言われるまでになっている。
 学問、教育の実質的な自主性という問題が、いまや、厳しく問い直されている。私は、学問は、あくまでも真理を探究するものであり、教育は、次代の人間をつくる事業であるとの――基本原則を、国家、社会のなかに再確認すべき時がきていると思う。その意味において、教育に対して政府がうるさく干渉し、学問に対して政府、実業界の圧力が加えられるような機構のあり方を、根底的に改めるべきであると考える。
 もとより、学問、教育といえども、産業社会や政治経済の現実から遊離して存在するものではないだろう。だが、それは、どこまでも、学問、教育にたずさわる人々の、自主性において解決されることが望ましい。教育行政は、政治の実行機関である内閣とは関係のない、独自の機関の手にゆだねられるべきである。そして、単に教師だけではなく、生徒、学生、民間の知的指導者も、できるだけ平等に近い立場で参加できるようでなければならない。
 私は、一九六八年から九年にかけて、日本はもとより全世界にまき起こった学園紛争が、権力の圧力に屈伏してしまう道理は、まずありえないと思う。ひとたびは、鎮圧されたようにみえても、また、噴き出してくるであろうし、やがては、これらの紛争が提起した――問題に対して、解決が試みられねばならなくなるはずである。
 そのための一つの試案として、私なりの考えを示したのである。具体的に、それ以後の問題をどうするかは、政治の行政機構から切りはなして確立された、教育独自の行政機関自身で検討し、解決すべきことである。そのゆえに、あえてここでは、そこまで述べるのを避けたい。しかし、次の時代を担うにふさわしい、人間教育の実現のために、教育問題の解決は、絶対に不可欠の課題であることを、繰り返すようだが、特に強調しておきたい。

1
4