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日蓮大聖人・池田大作

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人生の価値と長寿  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  現代医学の主要テーマは、――病人をいかに死なせないでおくか、というところにあるようだ。
 もとより人間は、特殊な場合をのぞけば、だれしも生きることへの本能的な願望をもっていよう。したがって、本来なら、死にかけた病人を少しでももちこたえさせた医師に対して、心からの称賛がおくられる。それも、たしかに無理からぬことだと思う。
 私は、そのこと自体を悪いというつもりは毛頭ない。ただ「死なない」ということと、「生きる」ということと――の間にある相違に盲目になってはならないと言いたいのである。なぜなら、現代人の一般的風潮は、この違いをまったく無視しており、それが、ひいては人生の尊さ、人間としての生き方に対して、無責任きわまる定見のなさを生じているように思えてならないのである。
 人生の尊さは、長寿にあるとは一概にいえない。もし、長寿のみが尊いのであれば、現在、世界一の長寿者といわれているコーカサス地方の一老人は百六十三歳だそうであるから、釈尊の二倍、キリストの五倍も尊いことになる。いかに長寿を願っている人とても、これをそのまま認めることはできないであろう。では、何によって、人生の価値が決まるかといえば、どれだけ、人のため、社会のために、有益な仕事をしたかということになろうか。
 長生きに、本当の価値があるとするならば、それは、それだけ、人のため社会のために長く働き、仕事ができるからにほかならない。俗に、「憎まれっ子、世にはばかる」などというが、世に害をおよぼすものの長生きは、決して人々から歓迎されないのである。
 同じ五十年の人生でも、何の意味もない人生もあれば、千年、二千年に相当する人生もある。単に「死なないでいる」ということと「生きている」ということとの違いは、いかに価値ある人生を生きたか、どうかということでもある。そして、人間らしい生き方も、つねにこの目的観に立ち、努力を重ねていくところに求められなければならない。
2  一般に、生命の尊厳という概念には、二つの面がある。人間の生命を至上のものとして、その生存権を尊重することも、――生命の尊厳を守ることに通じる。これは、他人に対した場合であり、言うなれば社会的側面である。だが、これまで述べてきたことからも明らかなように、現実問題として尊い人生もあれば、逆に有害無益な人生もありうる。これを決定するのは、その生命の主体者である個人の自覚と努力なのである。
 言いかえると、その主体的次元において生命の尊厳を守るということは、自己の生命を、自発的な使命感、目的観、理想追求の信念に立って、最高に価値的に有意義に投入し、燃焼させていくことである。――これが開かれた生命であり、事実のうえに、生命の尊厳を顕現していく道は、ここに求められなければならないであろう。
 もし、自分の生命を惜しみ、これを守り、肥やすことのみに専念するときには、その生命は、閉じた生命であり、無益の生命という以外にない。一歩すすんで論ずれば、生きている以上、人はあらゆる形で、この社会、世界の価値を、みずからの中へ取り入れ吸収している。それ自体は、すでに消費であり害を与えているといえまいか。
 したがって、まったくの無益の人生は、無害ではなく、むしろ有害の人生となる。私にとっては、恩師の恩師にあたる牧口常三郎先生は「善いことをしないのは、悪いことをしているのと同じだ」と教えられたが、――そうした生命系譜の流れからも、私は、なるほどと思える説であろうと思う。
 仏教(小乗教)の哲理では、いかなる生き物についても、その生命を奪うことは、一応、殺生の罪になるとする。生きている以上、われわれは絶対に、この殺生の罪からのがれられないわけだ。ただし、同じ殺生といっても、その対象によって、上殺・中殺・下殺の差異がある。生きるためのやむをえない下殺も、その自己の生命を、より大なる価値の追求、高い理想の顕現のために投入し燃焼していったときに、生かされていくのである。
 現代は、たしかに、かつての国家至上主義や、家族至上主義から脱却して、生命の尊厳の時代に入ったといえる。しかし、個人の生命の尊厳についての誤った考え方が、利己主義と、道徳(公徳)心の欠如と、精神的レベルの低下を招いていることも否定できない。
3  真に生命の尊厳をうちたて、人間性の向上と文化の進展を築いていくためには、社会的理念としての生命の尊厳はともかく、個人における自己の生命の尊厳というものの抜本的考え方を改めていくことが必要である。これは、もはや社会の制度や機構の問題ではなく、個人の生命の姿勢の問題であり、自覚の問題である。
 これを可能にするものは、生命の内からの変革と充実をもたらす、優れた精神文明によらなければなるまい。それを――私は、東洋仏法の真髄である、偉大なる生命哲理に求めている。
 かの有名な、ビクトル・ユゴーの言葉にもあるように「人は皆不定期の猶予つきで死に処せられてゐる」(『死刑囚最後の日』豊島与志雄訳、岩波文庫)。いわゆる、死刑囚と違うところは、いつ、どこで、どんな形で、それが行われるか、だれにも分かっていないということだけである。どんなに、この寿命を延ばそうと努力したところで、百年とは違うまい。いな、十年と違わないといっても過言ではなかろう。
 ただ、人は、このおのおのの生きうる人生に真剣に取り組み、偉大な仕事を成し遂げることによって、五十年の人生を、百年にも千年にも匹敵する人生とすることができる。――真の長寿は、この肉体が何年間、生体活動をつづけたかではなく、この生命が、どれだけの仕事をやりきったか、によって判定されるべきものなのであろう。

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