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日蓮大聖人・池田大作

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いわゆる“運命”について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  司馬遷の『史記』の中に、有名な一節がある。
 「志行が世の秩序にあわず、もっぱら悪事を犯していながら、生まれてから死ぬまで逸楽し、富裕の代々絶えないものもあり、また、正当な地を択んでふみ、正当に発言すべきときにのみ発言し、常に大道のみを歩み、公正なことでなければ発憤しないというように、終始謹直に身を持していながら、災禍にあうものが数えきれないほどある。そこで、わたしははなはだ思い惑う――いわゆる天道は是なのか、非なのか」(野口定男訳、平凡社『中国古典文学大系第十一巻』所収)
 この素朴な疑問は、現代の世相を批判する文書といっても、少しも奇異ではない。まるで、今日の新聞の文明批評のコラムにのせてもそのまま通ずるような、新鮮な輝きを放っている。二千年も昔に書かれたとは、とても信じがたいくらいである。
 それは、司馬遷の鋭い眼が、人間性というものに明晰な洞察を加えていたからであろう。だが私は、なにもここで、古代中国の偉大なる史家の観察眼を論ずるつもりはない。私が、この一節を引いたのは、その中に、“運命”というものを示唆する、端的な考え方が含まれているからである。
 ふつう、人間の日常生活というものは、因果の連鎖から成っている。仕事のうえでよい成績をあげようと思えば、やはり、それだけの努力をしなければならない。失敗すれば、その失敗の原因を振り返って考え、ふたたび同じ失敗を繰り返さぬよう、未来の戒めとする。左翼団体で、よく使う“自己批判”などというのも、同じ思考法の変型といえるであろう。
 われわれは、人生のもろもろの現象が、かなり複雑にからみあってはいるが――それでも、平均並みの知能であるなら理解できる、因果の法則から成り立っていることを知っている。また、成り立つであろうと期待もしている。事実、大部分の場合は、期待どおりにいく。
2  ところが、司馬遷も言うように、かならずしもすべてにおいて、この原因、結果どおりにいくとはかぎらない。特に、長い人生を通観して決算してみると、かえって、逆の結果を導きだしていることが多いのである。
 単純な、物理現象の原因、結果の法則とちがって、人間社会の事象は、複雑をきわめる。一つの事象にも、無数の原因がはたらいている。これらの無数の原因の結果として、実際にあらわれた事象は、――本来起こりえた無数の結果の、一つにすぎなかったとも考えられる。無数とまではいわずとも、少なくとも、幾つかの可能性はあったはずである。それが、なぜ、この結果があらわれたかということになると、そこには、たしかに人間の知性では計り知ることのできないものがある。これを、人は“運”と呼ぶ。
 『史記』の著者が、「天道是か非か」と言ったのも、人間の意思や知力を超えて、人生のもろもろの事象を支配している法理をさしていたと思われる。
 単純に、人生が原因、結果という法則で動いているものなら、人のはばかる悪行を犯した人こそ、不幸な災禍にあうべきであり、正々堂々の道を歩んだ善人の生涯は、逸楽と富貴に満ちたものであるべきだ。それが、逆の結果になっているところに、司馬遷の戸惑いと、天道に対する不信の原因がある。
 それでは、“運命”というものは、人間の努力と、その結果といった、因果律とまったく別なものかといえば、それは誤りであると私は思う。
 人々が、一般に運命といっているのも、実は因果の法則の、あらわれたものにほかならないといえないだろうか。
 たとえば、この人生という枠で考えると、たしかに理想的な生き方をしたとしても、より大きい宇宙的な視点から考察すれば、それが果たして正しい生き方といえるかどうか、きわめて難しい問題になってくる。そして、いわゆる“運命”とは、この宇宙大の、あるいは、生命の本源的な法則性のうえに立った、行為の因果への報いとはいえまいか。
 現在の生しか考えぬ人々にとっては、そのような“法”は、想像もおよばないところであろう。しかし、現在、考えうる最善の生き方をもって、絶対化することが不可能であるのは、歴史上のいくつかの事例を振り返ってみても、明らかである。
3  中世末から近世初めのヨーロッパで、人々は、狂熱にかられたように、魔女狩りを行った。当時の人々がいかに真剣に魔女の存在を考え、その殲滅に必死となっていたか。――それは、文字通り、暗黒の時代を現出したといえる。ルネサンスの中核となった当代一流の知識人たちも、魔女の存在には、微塵も疑いをはさまなかった。したがって、魔女とみなされた人々に加えられた残虐な迫害にも、ほとんどの人はいささかの良心の呵責も感じなかったのである。
 あるいは、近くは、戦前と戦後の日本人の生き方を振り返ってみても、その違いは、まことに明瞭であろう。かつては、軍神と讃えられ英雄とされた人々が、ひとたび戦いが終わってみれば、その銅像は倒され、教科書からもその名が抹殺されてしまった。
 このような変化をもたらすものは何か。――たとえば、中世ヨーロッパの世界で、善とされたのは、神と悪魔の相克を絶対とする、キリスト教的ドグマのもとにおいてであった。それが崩れ去り、現に生きている人間存在を基準においたとき、かつての善行は、恐るべき悪行として反省されるようになったのである。
 日本人の体験の例についても、かつての軍神や英雄は、国家主義が絶対化されていた時代の産物であった。ところがその国家主義が、より深い、人間主義に反するものであることが分かったとき、国家主義の“英雄”は、もはや真実の英雄ではなくなった。このような人間存在、人間性を一切の判断の基準におく考え方は、おそらく、今後人間社会がつづくかぎり変わることはないだろう。ただ、その“人間”のとらえかたにおいて、現在の生だけの存在にすぎぬとするか、永遠的な存在とするかによって、また違った判断も出てくることは、十分に考えられよう。
 現在、人間としてなんら非難されることのない、正しい生き方をしていたとしても、その善因が、かならずしも善果を生まないのは、さらに、人間存在の底に流れ、一切を支配している“法”に適っていないからだと、考える以外になくなってくる。
 この生命の本源の法則性、宇宙の実在の法を、仏教では妙法と説いたのである。ゆえに、あらゆる不幸の運命を転換して、永劫の幸福をつかんでいけるとする思想が、ここから帰結する。
4  結局、運命とは、原因、結果の法の枠外にあるものではなく、より深い法のうえでの、原因、結果の現象のあらわれにほかならない。それを偶然と考え、運命と呼ぶのは、その“法”の実在を知らないからであると言ったら言いすぎであろうか。
 ちょうど、電気の存在とその法則性を知らない人にとっては、電気を応用した、さまざまの文明の利器は、魔術のような不可思議なものと映るにちがいない。それと同じで――現代人もまた、運命としてあらわれている、生命の法則を知らないから、これを偶然的なものと考えるのであって、根本的な生命の法を知ったとすれば、ごく当たり前のこととして理解できるようになるはずではなかろうか。
 そのときこそ、人間としての幸福と平和への努力は、ことごとく蘇生し、実を結ぶことができるような気がしてならない。
 まさに、シラーの言うように「汝の運命の星は汝の胸中にある」のであろう。

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