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日蓮大聖人・池田大作

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人生と幸福  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  幸福という問題ほど、とらえにくいものはない。人間、だれしも、幸福を願わぬ人はいないのだから、これほど切実な問題もなかろう。つまりわれわれは、生活のなかにつねに幸・不幸という問題と直面しているのだが、そのくせ、その実像についてはきわめて無知なのである。
 ある意味で、幸福を追求するということは、欲望の充足と自己の負担の軽減ともいえる。人々は、口先では「幸・不幸は、心のもちかたしだいだ」と言ったように、精神主義的な言葉をはきながら、現実には少しでもカネを儲け、楽をしようと願っている。
 人間の幸福追求の努力には、どうしても物質崇拝と、他人を犠牲にしても自分は楽をしたいという、醜い側面がつきまとってくる。古来の文明の進歩は、そうした欲望によってもたらされてきたといっても過言ではないようだ。
 特に、今日のごとき科学文明の社会においては、人間のこうした欲望は、急速に――膨脹の一途をたどっていく。これまで人間が、みずからの肉体を使って行った仕事は、次々と機械の力で代行されるようになった。その最も代表的なものが交通機関であろう。
 かつて十数日をかけてテクテク歩いた東海道の旅は、いまや新幹線を利用すれば三時間である。ジェット旅客機なら一時間である。単純に時間的に考えても、新幹線は旅の労力を百二十分の一に減らし、ジェット機は三百六十分の一にしたことになる。
 その他、掃除機、洗濯機などの家事労働の分野でも、“合理化”や生産活動の面でのオートメ化は、今さら事大主義的にならべたてるまでもない。やがては、巨大な生産工場のベルトコンベアーの前に立って、労働をしているのはロボットであり、生きた人間の姿は、見られなくなってしまうかもしれない。
 機械にとって代わられつつあるのは、肉体労働の分野だけではない。コンピューターの出現により、知能労働までも機械に代替されはじめつつある。そうなると経理事務はもちろん、生産計画の立案といったものまで、人工頭脳で行われることも必然となっていく。
 こうして、人間の労働負担は、いちじるしく減少をつづけている。その結果、過去の王侯貴族のように、大衆のすべてがレジャーの時間をもつことができるようになってきている。一生の大部分を生きるために費やした時代から、――生きている時間を何のために活用するかと、思索すべき時代に入りはじめている。
 一人一人の人生の幸福という問題も、この全体的な時代の変化と切りはなして考えるわけにはいくまい。言いかえると、自身の欲望を満たすことを目的にたえまない発展を遂げてきた結果、かえって新しい不幸の様式を、生み出すことになってしまったのではあるまいか。
2  ショウペンハウエルは「人間の幸福の二つの敵は苦しみと退屈だ」(『孤独と人生』金森誠也訳、白水社)と言っているが、欲望が満たされないことによって生ずる“苦しみの不幸”から、自身は何をなすべきかに戸惑う“退屈の不幸”へと、変わりつつあるといえるのではなかろうか。
 それに対応して、幸福というものにも、二つのタイプがあるように考えられてくる。欲望が満足されることによって得られる幸福感と、自分のなすべきことを自覚し、それをなすことによって得られる生命の充実感とである。
 “苦しみの不幸”の泥沼に必死にあがいている人は、欲望の充足だけが、幸福をもたらしてくれるものであるように思われるかもしれない。ところがそうした幸福感は、その当座だけのはかない幸福であって、いったん満足すれば、いずれどこかへ消え去っていく。
 そして、次の瞬間には、同じものをもっている他人と比較して、なんとなく自分の得たものがつまらなく思えてきたり、または、別の新しい欲望の対象を考えだして、ふたたび苦痛に身を焼く始末になりかねない。
 人間である以上、こうした欲望との追っかけっこは、一生涯やまぬものかもしれぬ。もしそうだとすれば、人間は、永久に確たる幸福を得られないことになる。だが、さらにもう一歩深い次元に眼を開いたとき、尽きない幸福の実像があると思う。これを私は“絶対的幸福”と呼びたい。それに対して、単に欲望の充足にともなう浅い幸福感は“相対的幸福”になる。
 あえて、並列的にいえば、相対的幸福は“苦しみの不幸”に対応するもので、絶対的幸福は“退屈の不幸”に対応するものということができるが――むしろ、本源的には、次元の浅深の問題に帰せられるべきだと考えられる。なぜなら、同じく欲望充足のための活動であっても、他者に依存し受動的な態度に終始した場合は、その幸せは与えられたものであり、たちまち消えゆく花火のようなものにすぎない。
 これに対して、みずから行動し、その欲望を充足するために積極的に取り組んでいる場合は、そこに生命の充実感がある。こうして勝ちとった喜びは、一時の感覚ではなく、自己の生命のうえに刻まれた栄光の記録であり、原子の火のごとく永久に残っていくことであろう。
 したがって、あくまで具体的な活動の次元でみるかぎり、それは同じく自分の欲するものを得ようという欲望の充足行為である。往々にして、人間の幸福の崇高さを強調するあまり、そのような現実性を卑賎なものとする人があるが、――そうした理論は、結局、観念論であり、幸福生活への指導性を欠くものと言わざるをえまい。人間性の現実のなかに尊厳があるのであって、それは次元の問題なのである。
3  では、崩れることのない、本当の幸福の条件は何か。
 その第一に挙げられることは、あくまでも主体的に、積極的に、人生の問題に取り組んでいく生命自体の姿勢である。客観的状況のみに支配され、受動的に運命を考えるのではなく、どこまでも、主体的に、自分の力を、そうした状況や運命にぶつけて、少しでも切り開いていこうとする意欲である。
 そうした積極的な生命の姿勢は、およそ生命体ならすべてのものがもっている特質といってよい。特に植物より動物、動物のなかでも進化の度の高い動物ほど、この傾向は強い。人間が、万物の霊長であるというのも、この特質を最も強くそなえているからではあるまいか。
 とすれば、人間は、いかに不利な条件に直面しても、つねに主体的に、積極的に、これと取り組み、挑戦していくべきだと思う。これが人間生命の本然的な特質であり、特権だからである。そして、人生において味わうことのできる最高の幸福が、そこにあるからである。
 幸福は、決して山のかなたにはない。自己自身の内にある。しかし、座して安閑としている自分ではなく、あくまで、かなたにあるものをめざして、険しい尾根に挑戦し、障害を一歩一歩、克服してすすんでいる“戦う自分”の生命の躍動の内にあるのだ。
 幸福の条件の第二は、英知である。
 いかに意欲に満ち――前進また前進をしていっても、英知の灯火を失っては、闇中の遠征になってしまう。古代ギリシャの哲人の格言に「人間は、みな幸福を求むるも、幸福とは、宇宙および人間の指導原理たる理性にしたがいて生くることなり」というのがある。
 この場合、宇宙とは自然界、物理的・科学的現象界と言いかえていいだろう。人間とは、人間社会の、心理的、精神的世界といえる。これらの世界を動かしている法則、原理を正しく認識せずしては、幸福実現はできないということである。
 高山を征服しようという意欲はあっても、登山の技術をもたなければ、暴挙にすぎなくなってしまう。それと同じく、人生のあらゆる障害も、それを克服するには、どうすれば、最も確実に、価値的に目的を達成できるかを知らなければなるまい。
 この哲人の言う、“宇宙および人間の指導原理”が何なのか――彼は、それをただ理性といっているだけだが、その当体は何か、それを究めることが人類の最大の課題といえよう。

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