Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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人間であることの難しさ
「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)
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人間が人間らしく生きることに、真っ向から反逆した最大の罪悪は、言うまでもなく戦争であろう。殺人、破壊という、最も非道な行いを、英雄的と称賛する戦争は、まさに人間の悪知恵がうんだ、最高傑作といえるであろう。現在、日本民族は、憲法に戦争放棄をうたっているから、その点では、最も誇ってよいようである。
だが、ことは戦争にかぎらない。太平ムードの豊かな社会は、急速な生活環境の変化をもたらし、人々が、それを心の中に摂りいれ、十分に咀嚼するゆとりさえ与えてくれないありさまだ。あらゆることを知りながら、何ひとつ消化しない現代人の病名は、知識過多の慢性下痢ということになるかもしれない。こんな状態がいつまでもつづけば、やがて現代人の精神は、やせ衰えて死滅してしまうおそれすらある。
戦後の日本人は“人間であること”について、あまりにも無関心に徹しているように思われる。合理主義も結構である。能率の向上も、もとより大切であろう。しかし、みずからの主体性を忘れたものは、悪魔に魂を売って、ぜいたくに溺れているのと同じではあるまいか。
本来、日本民族は“人間であること”“人間らしく生きること”に最も崇高な価値を認め、そこに深い反省と自覚を繰り返してきた、数少ない民族の一つである。「人身を受けることは稀である」というのは、おそらく仏教の影響によって生じた思想であろうが、かつて仏教が流布した、アジアのどこの民族にも、日本人ほど、この考え方を体質化した例は、ちょっと見あたらない。
今では、単なる罵声になってしまった「人でなし」とか「畜生」「非道」などという言葉も、人間の道から外れることの恥を表現したものであったろう。いつの時代も、いかなる立場であっても、つねに最も尊敬されたのは、人間らしい心をもち、人間らしく生き抜いた人であった。この心を失った人は、いかなる権力者、大金持ちといえども、結局、非難と軽蔑を厳しく受けてきたものである。
人間を、人間たらしめる条件は何か。ある人は英知と言い「ホモ・サピエンス」と人間を名づけた。ある人は、工作することに特質を認め「ホモ・ファーベル」と呼んだ。オランダの歴史家ホイジンガは、遊戯することに人間の特質を認め「ホモ・ルーデンス」と定義づけている。
これらの学説は、みな、それなりに人間ならではの特質を、端的にとらえたものであろう。とはいえ、そのいずれも、人間の全体像を表現したものでないことは明白である。もう一歩深いところに、それらを総括するものがなければならない。
私は、あえてこれを“自己完成への意志”と名づけたい。つまり、人間は、みずから人間であることを自覚するとともに、より人間らしくあろうと努力することによって、真実の人間となることができるのではなかろうか。
英知といい創造性といい、さらに、レジャーを楽しむさまざまな遊びといい、この「人間であろうとする意欲」の実際生活面にあらわれた、一断面にほかならない。ともに、それらの行動は「人間である」との矜持に立って初めてプラスの価値をもちうるのであろう。
人間の一生は、自己完成への努力の連続であり、死の瞬間にいたるまで「人間であること」の証明の積み重ねでなくてはならない。
人間が、人間であること――これほど易しくみえて、難しいことも、おそらく他に類がないだろう。
リンカーンは「人間は、四十代になれば、自分の顔には、自分で責任をもたねばならない」と言ったという。
私の恩師は「凡夫である」ことを座右の銘としていた。万物の霊長である人間となることは、なによりも至難であり偉大なることだと、しみじみ痛感せざるをえない昨今である。
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