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日蓮大聖人・池田大作

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人間であることの難しさ  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  人間というものは――だれでも物ごころがついたときから、自分は、人間であると思っている。自分を、人間以外の何ものかであるとは、まともな人間ならだれも考えまい。
 人種のなかには、部族によって、熊とか狼を祖先と考え、その血を受け継いでいると信じているものがあるようだが、これとて、現に自分たちが、人間であることを否定しているわけではない。
 少なくとも精神状態が正常であるかぎり、人間は自分が人間であることを知り、また、自覚もしているわけだが、それでは、そのすべての人々が、本当に人間としてのふさわしい行動を貫いているであろうか――人間らしい一生を終えているかとなると、きわめて難しい問題になってくる。
 科学の発達にともなって、人間と他の動物とどう違うのか、その身体の構造、機能は……知的能力の相違はどうか、といった生物学的な比較研究や、およそどれくらい昔に、そうした人類の歴史が始まったのかといったことは、かなり詳しく明らかにされている。今日、人間研究といえば、だいたい、このような問題意識のもとに行われている学問と考えてよい。
 たしかにこうした学問の成果は、人間というものがどういう存在かを、客観的に認識する手がかりを与えてくれる。ところが、人間存在を外から眺める学問的知識は、それをいかに豊富に集め、巧みに組み合わせたとしても、生きた人間自体を把握することはまったく不可能なのである。まして、いかに生きるべきかという主体的な、内面の意識の問題とは、ほとんど無関係だとさえいえよう。これまでの学問の伝統が、現在、大学紛争で“怒れる若者たち”の猛攻撃にあい、まさに崩壊の淵に立たされている根本原因も、私はここにあると考える。
 人間存在を客観的に解明しようとする、過去の学問の道も、本来はそれが人生に処する、主体的意識の確立につながると考えられたからこそ、生まれたのであろう。そこには、すでに魂の抜けた宗教や道徳に代わって、理性と学問を源泉とし土台とする、新しい原理の探究への、みずみずしい希望があったはずだ。
 言いかえると、人間に関する科学的な認識については、現代人は――過去の、いかなる時代の最高の知識人をも凌駕しているにちがいない。にもかかわらず、人間はいかに生きるべきか、という問題になると、これまた、かつてないひどい混迷におちいっている。この事実は、人間の科学によせられた楽観的期待を、ものの見事に裏切ってしまっている。
 「人間であるとは、どういうことなのか」「人間は、いかに生きるべきか」という問題は、古来、幾多の思想家によって、探求されてきた倫理学の究極のテーマであった。だが、実際に人々に強い影響をおよぼしたのは、そのような観念的な学問ではなく、むしろ、庶民の生活のなかに生きた知恵や、道義や、信条としてであったろう。
 親と子、兄弟、親戚、隣人、同業者、友だちなど、人間と人間との親密なる心のふれあいを通じて、人間としての道が自然に追求され、受け継がれていったのである。抽象的な観念ではなく、きちんとした生活の折り目、思いやりと、勇気のある行動といった実践によって、一人一人の生命の中にしみこんでいったのである。
 現代文明は、物質偏重におちいった結果、人間精神の内面の問題をあまりにも軽視するようになってしまった。人々は幸福生活の条件を、豊かな財産や整備された環境にばかり求め、それを追うことに夢中で、人間同士の温かな心のふれあいを傲慢にも切りすててしまっている。
2  最近、しばしば“エコノミック・アニマル”という言葉が使われる。なんでも、経済至上主義の昨今の日本人に対して、外国人がつけたのがはじまりらしい。なかば、日本の高度成長に対する“やっかみ”もあったであろうが、戦後の、日本人の生き方を鋭くついた言葉として、反省しなければならぬ点も少なからずあるようである。しかし、それは、ひとり日本人だけの問題ではなく、いわゆる近代文明の恩恵に浴している国々は、ほとんどが、大なり小なり、この問題につながる悩みをもっていることも事実ではなかろうか。
 たとえていうならば、企業のまきちらす公害の問題である。わが国では水俣病や、神通川流域のイタイイタイ病の問題が起こったが、ヨーロッパはライン川でも、毒物投棄で多くの魚が死んでしまった事件が報じられている。その他、煤塵や有毒ガスのために、住民がゼンソクなどで苦しんでいる例は枚挙にいとまがない。
 自分の生きる土地を大切にし、清らかにしようというのは、人間の本然的な願望であろう。いわんや周りの住民は、工場にとって最も大事にすべき消費者であり、間接的な支援者でもあるはずだ。かつては、そうした周りの人々に感謝し、最大の礼をつくすのが、商人や職人の心意気であった。そうした人間らしい道義が、今は、経済至上主義という企業論理のスモッグに覆われて、みるかげもないありさまである。
 人工甘味料や染色剤、漂白剤、さらに防腐剤にいたるまで、食品に含まれた有害化合物の問題が騒がれるようになったのは、つい先ごろのことである。そのなかには、すでに外国では、何年も前に禁止処分になっていたものが、わが国では、平然と使用されてきたものも少なくない。
 あきらかに有害と知りつつ、大衆の無知につけこみ、そしらぬ顔で庶民の食膳に送りとどける企業家の道義は、みずから人間としての資格を放棄したものとしかいいようがあるまい。ある食品業者は、自家で作っているケーキを「まともな人間なら、あんな物は食べられぬ」と以前から言っていたというが、その非道ぶりには心から憤りをおぼえずにいられない。
3  人間が人間らしく生きることに、真っ向から反逆した最大の罪悪は、言うまでもなく戦争であろう。殺人、破壊という、最も非道な行いを、英雄的と称賛する戦争は、まさに人間の悪知恵がうんだ、最高傑作といえるであろう。現在、日本民族は、憲法に戦争放棄をうたっているから、その点では、最も誇ってよいようである。
 だが、ことは戦争にかぎらない。太平ムードの豊かな社会は、急速な生活環境の変化をもたらし、人々が、それを心の中に摂りいれ、十分に咀嚼するゆとりさえ与えてくれないありさまだ。あらゆることを知りながら、何ひとつ消化しない現代人の病名は、知識過多の慢性下痢ということになるかもしれない。こんな状態がいつまでもつづけば、やがて現代人の精神は、やせ衰えて死滅してしまうおそれすらある。
 戦後の日本人は“人間であること”について、あまりにも無関心に徹しているように思われる。合理主義も結構である。能率の向上も、もとより大切であろう。しかし、みずからの主体性を忘れたものは、悪魔に魂を売って、ぜいたくに溺れているのと同じではあるまいか。
 本来、日本民族は“人間であること”“人間らしく生きること”に最も崇高な価値を認め、そこに深い反省と自覚を繰り返してきた、数少ない民族の一つである。「人身を受けることは稀である」というのは、おそらく仏教の影響によって生じた思想であろうが、かつて仏教が流布した、アジアのどこの民族にも、日本人ほど、この考え方を体質化した例は、ちょっと見あたらない。
 今では、単なる罵声になってしまった「人でなし」とか「畜生」「非道」などという言葉も、人間の道から外れることの恥を表現したものであったろう。いつの時代も、いかなる立場であっても、つねに最も尊敬されたのは、人間らしい心をもち、人間らしく生き抜いた人であった。この心を失った人は、いかなる権力者、大金持ちといえども、結局、非難と軽蔑を厳しく受けてきたものである。
 人間を、人間たらしめる条件は何か。ある人は英知と言い「ホモ・サピエンス」と人間を名づけた。ある人は、工作することに特質を認め「ホモ・ファーベル」と呼んだ。オランダの歴史家ホイジンガは、遊戯することに人間の特質を認め「ホモ・ルーデンス」と定義づけている。
 これらの学説は、みな、それなりに人間ならではの特質を、端的にとらえたものであろう。とはいえ、そのいずれも、人間の全体像を表現したものでないことは明白である。もう一歩深いところに、それらを総括するものがなければならない。
 私は、あえてこれを“自己完成への意志”と名づけたい。つまり、人間は、みずから人間であることを自覚するとともに、より人間らしくあろうと努力することによって、真実の人間となることができるのではなかろうか。
 英知といい創造性といい、さらに、レジャーを楽しむさまざまな遊びといい、この「人間であろうとする意欲」の実際生活面にあらわれた、一断面にほかならない。ともに、それらの行動は「人間である」との矜持に立って初めてプラスの価値をもちうるのであろう。
 人間の一生は、自己完成への努力の連続であり、死の瞬間にいたるまで「人間であること」の証明の積み重ねでなくてはならない。
 人間が、人間であること――これほど易しくみえて、難しいことも、おそらく他に類がないだろう。
 リンカーンは「人間は、四十代になれば、自分の顔には、自分で責任をもたねばならない」と言ったという。
 私の恩師は「凡夫である」ことを座右の銘としていた。万物の霊長である人間となることは、なによりも至難であり偉大なることだと、しみじみ痛感せざるをえない昨今である。

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