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日蓮大聖人・池田大作

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現代における“大志”の位置  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  私もまた、戦時中のあの灰色の青春を生きねばならなかった一人として、二度と、あのようなことは繰り返させてはならないと思う。青年が、青年らしく生きられるような社会の建設のため、これまでも努力を重ねてきたつもりであるし、生涯その決意と実践は変えないであろう。
 現代社会は、あまりにも複雑化し高度に発達し、単純に“大志”をいだける時代ではなくなったように思える。あらゆる組織と既存の権威の力が、幾重にも根を張り枝を広げ、少しの未開地もない、完成され安定しきった社会ともみえる。
 だが、果たしてそうだろうか。ありとあらゆる根が絡みあい、枝葉がぎっしりと重なり合っていることは事実だが、それは、完成と安定を意味するのではない。むしろ、社会全体が、かつてない激しい勢いで運動し回転し、突き進んでいるのだ。
 かつては、未開の世界は文明の周辺に広がっていた。わが国でいえば、北海道が未開地であり、南洋諸島が未開の土地であった。今は、社会全体が未開地であり、むしろ逆に、文明の中心地に近づくほど、未開の度を強めているといえまいか。
 この新しい、未開の分野に挑む青年に要求されるものは、理想に向かって逞しく燃える“大志”であるとともに、時代と社会を正しく見きわめる英知であろう。エネルギーのみあって、為政者の思考を見抜けず、時代の潮流を知らぬ愚かなる青年であってはなるまい。また、いたずらに、拒絶反応を起こすだけでも、青年としての特権も喜びも、同時に捨ててしまうことになるのではあるまいか。まして、狡猾な指導者にとって、単純な拒絶反応は、それ自体も、利用するに足るエネルギーなのである。
 たとえば、過去の幾多の革命運動は、いずれも、青年の既存体制に対する、拒絶反応のエネルギーを利用して遂行されてきた。そして、もっと悪いことに、利用されるだけ利用されて革命が成功し、新しい権力が安定すると、青年のエネルギーは、もはや有害無益なものとして捨てられたのである。
 青年は青年らしく、やはり“大志”をもつべきである。しかし、それは既存の体制に依存した、没主体的なものであってはならない。“大志”は、なにも体制の中にのみあるものではないからだ。青年の生きる道は、つねに未来である。青年それ自体が、未来なのだ。未来は、青年の胸中のみにあるといってもよい。
 そして、青年は、その“大志”を正しく実現していくための英知をもつべきである。現在や過去のために、自分たちの未来が犠牲にされることのないよう、冷静な眼をしっかりと見ひらいていかねばなるまい。

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