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日蓮大聖人・池田大作

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現代における“大志”の位置  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  明治の、しかも開拓地であった北海道の青年と違って、現代の若者たちにとっては、“大志をいだけ”などというのは、およそ“ナンセンス”になってしまったようである。現代社会の不条理は、大志さえいだけば存分に青年が活躍できる舞台を、どこかへ消し去ってしまった。
 青年の特質は、純粋な熱情と、それを思うままに燃やそうとする“志”の大きさにあるようだ。青年が、青年らしく生きるとは、己の“志”に殉じ、もてる力を悔いなく発散しきっていくことにほかならぬ。ところが現代は、青年から夢を奪い、青年の熱情をむなしく朽ち果てさせる、非情な社会となっている。
 「青年よ、大志をいだけ」
 というクラーク博士の言葉を、この現代社会で繰り返すことは、いかにも陳腐に聞こえよう。しかし、これに「ナンセンス!」と罵声をあびせ、歴史の彼方に葬りさることだけに終始するのは、さらにナンセンスである。青年が、青年らしく生きられなくなってしまった、現代社会の不条理を問うて初めて、積極的な批判となることができるのだと思う。
 たしかに「青年よ、大志をいだけ」という言葉は、かなり大時代的な臭いが強い。私なども、戦時中に教育をうけて育ってきた、いわゆる“戦中派”であり――社会全体が、日本男子は大志をいだかなければならぬといった風潮であった。
 私自身、どうも病弱であり、意気地なしでもあるので、大きくなったら大将になろうとか、提督になろうなどという気持ちは、さらさらなかった。
 ただ、私なりに生き、詩歌や文学に親しんで、生涯に、一つぐらいはライフ・ワークになるような小説でも書きたいと願っていた。戦局が厳しくなるにつれて、作家だの、詩人だのといった人々は、いわば無為徒食の非国民であるかのような目で見られるようになっていったが、少なくとも、私は私なりに“大志”をいだいていたとはいえまいか。
 もともと、クラーク博士が口にした“大志”も、単に、社会に認められ、名誉と、富を築くなどといった浅薄なものではなかったはずである。そうした、権威や既存の体制とは関係のない、開 拓 精 神に満ちたものであり、名誉欲を超えた、純粋なものであったにちがいない。
 それが、いつのまにか、近代日本を支えた独占資本と軍国主義の枠の中に取りこまれていって、――事業家として巨財をなすか、軍神として崇拝されるか、これら以外に、男子の本懐はないかのごとく言いならわされるにいたったのである。こうして、大志をいだく青年の純粋さとエネルギーは、軍国主義日本の富国強兵のために、巧みに利用されていった。
 戦後、大志という言葉は、青年を説得する力のない空虚な概念と化した。それは、これまでの運命からいって、無理からぬところであったろうと思われる。少なくとも、私たちの年代に関していえば、二度と国家権力や老獪な指導者たちの道具にはされたくないというのが、そもそもの考え方の発端であった。そうした気持ちは、現在の若者たちにも、もちろん切迫した現実感としては薄くなってしまったものの、まだきわめて濃厚に残されている。私たちの世代のような生々しさはないが、むしろその後の幾多の時代の激動を経て、精錬され、結晶化されてきているといってもよい。
2  私もまた、戦時中のあの灰色の青春を生きねばならなかった一人として、二度と、あのようなことは繰り返させてはならないと思う。青年が、青年らしく生きられるような社会の建設のため、これまでも努力を重ねてきたつもりであるし、生涯その決意と実践は変えないであろう。
 現代社会は、あまりにも複雑化し高度に発達し、単純に“大志”をいだける時代ではなくなったように思える。あらゆる組織と既存の権威の力が、幾重にも根を張り枝を広げ、少しの未開地もない、完成され安定しきった社会ともみえる。
 だが、果たしてそうだろうか。ありとあらゆる根が絡みあい、枝葉がぎっしりと重なり合っていることは事実だが、それは、完成と安定を意味するのではない。むしろ、社会全体が、かつてない激しい勢いで運動し回転し、突き進んでいるのだ。
 かつては、未開の世界は文明の周辺に広がっていた。わが国でいえば、北海道が未開地であり、南洋諸島が未開の土地であった。今は、社会全体が未開地であり、むしろ逆に、文明の中心地に近づくほど、未開の度を強めているといえまいか。
 この新しい、未開の分野に挑む青年に要求されるものは、理想に向かって逞しく燃える“大志”であるとともに、時代と社会を正しく見きわめる英知であろう。エネルギーのみあって、為政者の思考を見抜けず、時代の潮流を知らぬ愚かなる青年であってはなるまい。また、いたずらに、拒絶反応を起こすだけでも、青年としての特権も喜びも、同時に捨ててしまうことになるのではあるまいか。まして、狡猾な指導者にとって、単純な拒絶反応は、それ自体も、利用するに足るエネルギーなのである。
 たとえば、過去の幾多の革命運動は、いずれも、青年の既存体制に対する、拒絶反応のエネルギーを利用して遂行されてきた。そして、もっと悪いことに、利用されるだけ利用されて革命が成功し、新しい権力が安定すると、青年のエネルギーは、もはや有害無益なものとして捨てられたのである。
 青年は青年らしく、やはり“大志”をもつべきである。しかし、それは既存の体制に依存した、没主体的なものであってはならない。“大志”は、なにも体制の中にのみあるものではないからだ。青年の生きる道は、つねに未来である。青年それ自体が、未来なのだ。未来は、青年の胸中のみにあるといってもよい。
 そして、青年は、その“大志”を正しく実現していくための英知をもつべきである。現在や過去のために、自分たちの未来が犠牲にされることのないよう、冷静な眼をしっかりと見ひらいていかねばなるまい。

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