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日蓮大聖人・池田大作

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時代の青春像  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  学生のゲバルト騒ぎに、初めは拍手喝采をおくっていた“物わかりのよい”知識人や一般市民も、その過激な暴力性が露骨になるにしたがって、反感を強めているようだ。おそらくこのままでは、彼らの革新の息吹も、世論の非難のなかに、消滅してしまうのではないかと危惧せざるをえない。
 私も、暴力には反対である。大学の施設や商店が、破壊されることもあってはならぬし、若者が、負傷したり死んだりすることは、かわいそうでならない。だが、それ以上に心配するのは、青春のこの逞しい情熱が、老人支配の権力の足下に、むなしく踏みつぶされてしまうことである。
 考えてみると、青年ほど、時代の無残な犠牲にされているものはない。それは、過去の歴史がたえまない戦争の連続であったことと表裏をなしている。戦争を決定するのは老人支配者である。作戦を立てるのも老いた将軍たちである。泥沼や、山河や、海上で、死を賭して戦い進むのは、つねに若者たちである。開戦決定や作戦立案と、何の関係もない――。
 青年は、表面では“国の宝”とおだてられながら、実は、狡猾な老人たちの栄誉のために利用され踏み台にされて、楽しかるべき青春を泥と血にまみれさせられてきたのである。この悲しむべき青春の運命を見事に百八十度転換し、若者たちが、心から充実感をもって、青春を愉しむことのできる時代を到来させることこそ――現代の重要な課題の一つであると私は思う。
 青春は人生の花である。それが、生命の自然のあり方であり、当然すぎるほどの道理でもあろう。人間のつくりだした文化は、青春から喜びを奪い、苦痛に満ちた灰色の世界に変えてしまった。自然の道理をゆがめているこのような文化が、正しいものであるかどうか、私は疑問をいだかずにはいられない。
 もちろん、巨大で複雑な文化をもつ社会では、その継承のために、若者が学ぶべきことはあまりにも多く、次代を受け継ぐ準備のために、青春が犠牲になることも分かる。しかし、それならば、そこには未来への明るい希望と喜びがあるはずだ。
 文明社会の青春像は、必要以上の犠牲を強いられ、しかも、前途の希望はきわめて少ない。多くの青年が、暗い閉ざされた未来像しかもてなくなっていはしまいか。または、何もかも決定された、選択の余地なき、現実的な人生の構想しか与えられていない現状ではなかろうか。
 悲しむべきことに――人間の英知は、懸命に努力したあげく、最も暗澹とした、苦痛の多い生き方ばかりを好んで選び、後輩に押しつけているようにさえ思えてならない。たしかに、青春に悩みはつきものだ。苦難は、人生の最高の鍛錬でもあろう。だが、不当な、不合理な苦痛は、かえって精神を萎縮させ、奇型をつくることになりかねない。
 今の老人支配者たちも、元をただせば、そうした青春時代を過ごしてきた人々であるはずだ。現代の歪みは、結局、彼らの青春期に決定されたものに他ならないのではあるまいか。未来の指導者像を歪んだものにさせないためには、現代の青年の育成に、誤りがあってはならないと訴えておきたい。
2  “断絶の時代”といわれる現代は、世代間の相克の時代でもある。世代間の相克こそ、最も古くして、しかも生存の本源に絡まる問題といえよう。エネルギーの大きさからいえば、若者のほうが圧倒的に強大である。今日のわが国の人口構成も、昭和世代が七割以上を占めている。にもかかわらず、あらゆる主導権は、わずか一割前後の明治の世代に独占されているのである。
 その指導者の施策が、若者を犠牲に追いやろうとするとき、若者たちの憤りが、激しく巻きおこるのは、むしろ当然のことと思わなければなるまい。私は現在の世代間闘争の先頭に立つ学生の行動が、全部正しいとはいわないが、少なくとも指導者は、この若い世代の心情を、深い洞察力をもって理解すべきであると思う。
 青春には、青春にふさわしい、希望と夢を与えるべきである。彼らのエネルギーが、彼ら自身の未来の建設に向かって、存分に発揮されていくよう、指導者は、あらゆる英知を傾けるべきである。そして、若い世代が、すでに十分に主導権を握っていける分野に関しては、いさぎよく、タイマツを渡すことではないだろうか。
 次の世代を大事にする社会は、すでに未来の発展と繁栄を約束されているといっても過言ではない。企業においても、若年の人材が抜擢される企業ほど、活力があり成長が著しい。老人が、主導権を独占し、若者が、その下に逼塞しているような企業は、同じことをしても、内部から腐敗し、崩壊していくものである。一国家も世界全体も、この原理は、まったく変わらない。
 歴史の曲がり角において、新しい活路を先駆をきって拓いてきたのは、つねに青年たちであった。われわれは、過去の激動の時代を振り返ってみるとき、そこに躍動する青春の息吹を感ぜずにはいられない。現代が、人類文明史の巨大な転換期であるとするならば、現代において主役を占めるものも、また、青年でなければならないはずである。
 時代は、好むと好まざるとにかかわらず、青年の台頭を強く要請しているのだ。この青年のエネルギーを、正しく未来の建設と開拓のためにリードしていくには、いったい、何が必要かということこそ、すべてに優先して探究されねばならないだろう。

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