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日蓮大聖人・池田大作

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若い母親に語る  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  なかんずく両親のあり方は、子供にとっては、鏡であり、手本である。子供の心は敏感で鋭く、両親の生活態度を反映するものだ。賢明な子供は、時には、気づかぬ振りをすることもある。すさんだ家庭生活の中で、一人こつこつと勉強にうちこみ、無心に遊んでいるように見える場合もあろう。だからといって、子供の心に反映されていないと思ったら、それは大なる誤りである。
 時としては、子供の心に鮮烈な印象を与え、その心の奥底に刻まれたものは、子供の生涯の人格に、ぬぐい去りがたい歪みとなって、一生を支配するものとなっていくであろう。
 また、愛情に満ちた両親の姿は、生涯、深く子供の心に刻みこまれて、たとえ、悪の誘惑にかかったとき、または自身の弱さに負けそうになったとき、かならず心の支えとなり、正しい道へ、引きもどす灯火となっていくにちがいない。
 戦後、社会情勢の激変により、家庭のあり方は、あらゆる方面で変わった。祖父母の同居している家庭が少なくなり、小家族――いわゆる核家族時代である。家父長系的な家族制は、根底より変化してきていることは事実である。
 ある人は、これを「家族制度の崩壊」とまで極言している。しかし、私は「崩壊」ではなく、むしろ「変革」と考えたい。なぜなら、そんなに簡単に、数千年の家族制度が崩壊し、消滅するわけはないからである。
 もとより、家族制度、家庭生活のあり方が、昔のままで通用するとは、言えぬであろう。しかし、戦後の社会に適応したあり方での家庭は、ある意味では、かつてより以上に重要な比重を占めていると考えねばなるまい。
 問題は、こうした新しい事態のなかで、新しい状況に応じて、いかに賢明に、家庭生活を運営し、夫を元気づけ、子供を育てていくか。これが、新しい時代の要請する知恵ではないだろうか。
3  幸いにして、最近の若い母親の皆さんは、戦後の民主教育を経験し、民主主義のなんたるかを知っている。今の青年たちの母親は、戦前派であり、民主教育の何かも知らぬままに、ただ古い理念の崩壊にあい、途方にくれ、自信喪失に陥ってしまったわけだ。
 ところが、皆さん方は、子供とともに、新しい時代を呼吸し、ともに新しい世紀を築いていく道程にある。
 新しい家庭生活のあり方には、新しい理念が必要となる。もはや、密室的な、閉鎖的な行き方であってはならない。過去の立身出世主義的な物の考え方は、人間性を喪失したものであり、時代の流れに即応するものでは決してない。
 私は、新しい家庭の姿は、社会に向かって、大きく開かれた家庭でなくてはならぬと思う。子供の個性を重んじ、独創性を豊かにし、社会性を伸ばし、生命の尊さ、平等の意識、平和への心を養うことが、最も大切なのではないだろうか。
 最近、社会問題の一つに“教育ママ”の問題がある。これについても、学歴偏重の歪みだとか、国の教育行政の貧困だとか、議論はいろいろあろうが、母親自身の立場に問題を要約すれば、その大部分が母親の、子供を通してあらわれた、虚栄であり、見栄であるといいたい。
 よく、ヒステリックに、子供の学習、ピアノの稽古、絵の勉強等、母親のみの描いた理想のワクの中に子供を押し込め、懸命になっている姿を見受けるが、あまり感じのいいものではない。かえって、子供の個性を殺してしまっていくことを心配するのである。
 子供の可愛いことはよく分かる。しかし、はたして、可愛がっている対象は、子供なのか、それとも母親自身なのか、分からなくなっている場合がある。
 なるほど“教育ママ”は、しばしば世間の批判の的にされるが、母親が教育熱心というだけなら、なにも非難されることはない。問題は「子供のため」という大義名分をかざしながら、実は母親自身のエゴを押しつけ、結果として闊達に伸びようとする子供の可能性の芽を、無残にも摘みとってしまうことである。この作為的な母親の姿は、さらに本源的には、人間観の誤りに原因があるのではなかろうか。
 心ある人なら、だれもが認めるように、職業は平等であり、その間に、貴賎上下の別はない。強いて、差別ありとするならば、偽りの人生こそ卑しむべきであり、自分らしく、誠実にそして精いっぱい努力して生きた人生は、最も尊ばるべきであると思う。それが、民主主義の原理であり、建設者であり、実践者であり、正しい考え方であるはずだ。
 この人間らしい、誠実な、正しい生き方を教えるのが母親の責任ではあるまいか。有名校に入り、割りのよい職業につき、ごまかしの人生を生きさせようとすることは、子供の幸福を願っているようであって、実は子供を人間として不幸にするために、躍起になっている場合があることを知っていただきたい。
4  よく青少年の道徳問題になると、学校での教師と生徒との関係が批判の的になる。もちろん、その間に温かく、うるわしい人間関係がなくてはならないのは当然であろう。しかし、教師を批判する前に、はたして、母親の側も子供のために、なすべきことをなしたかを反省すべきである。
 こう述べれば「私は精いっぱいやっている」と答える人もあるかもしれぬ。私は、何もそのことを否定しているのではない。だが、いったい、本当に、子供の個性を重んじているのか、本当に独創性を豊かにし、社会性を伸ばすことに力を入れているのか。あるいは家庭を人間性豊かな憩いの場とし、活力の泉とし、子供に対し、正しい人間性を、植えつけているのであろうか。このことを、もう一度、自身の胸に問いただすべきではなかろうかと、提案しているのである。
 子供の人間性、道徳的しつけ、道義感に対して、最も大きい影響力をもっているのは、ほかならぬ母親であって、他のだれでもないからである。このことは、大いに誇りにも思うべきであるし、そこに強い責任を感じていくべきであると思う。
 子供を名門校に入れさえすれば、立派になると考え、無理矢理に勉強をさせ、萎縮させるのも、結局は、こうした学校に勉強の責任を一切転嫁しようとする態度に、一端の原因があるともいえるわけである。
 人生にとって、学校の勉強だけがすべてではないだろう。学校が終わって、近所の子供たちと、遊びまわることも、人との接し方を身につける、重要な人生の学問である。いろいろな遊びを工夫するのも、大切な創造性の涵養である。
 子供にとっては、あらゆるものが、人生の教師であり、教材であるのだ。これを理解し、正しく導き、のびのびと個性を伸ばし、幅広く成長させていくことこそ、聡明な母親としてのつとめではないだろうか。
 私も三児の父であるが、子供は、自由に、のびのびと成長させるべきだと思っている。子供には子供の夢がある。みずからの夢を求めて、みずから努力し、学んだものが、当人の、真実の血となり、肉となっていくからである。
 繰り返して言うようであるが、母親は、子供に対し、その愛情を通じて、人間の尊さ、生き方を教えてあげるのでなければならない。
 肩書や、財産は、人間性の本性にとっては、枝葉末節にすぎぬことを教えるべきである。むろん、教えるといっても、言葉だけではない。母親の人間観が、自然とにじみでて子供に反映していくのである。この、身をもって教え、育てた正しい人間観、美しい人間性が、やがて子供たちを、民主主義の時代に合致した、力強い人間像へと育てあげていくことと思う。この新しい、若き世代は、さらにお互いに協力しあって、輝かしき黄金の世紀を築いていくであろうと、心より信じ、また期待するものは私一人ではあるまい。
 この意味からも、新しい、幸福と平和な時代を築く、最も重要な役割をはたすのは、若き母親である皆さん方であることに、自信をもち、未来に向かって開かれた、生きた人間教育に励んでいただきたいと念願してやまない。
5  次に、若い母親が戸惑うのは、子供のしつけの問題ではなかろうか。
 十八世紀のイギリスの哲学者ヒュームは「習慣はかくて人間生活の大きな指針である」(『人間悟性の研究』福鎌達夫訳、彰考書院)と、その重要性を強調している。私は、なにも習慣がすべてであるとは思わないが、その人の個性を、人生を、社会の上に、存分に発揮していくためにも、基本的な、正しい習慣を身につけることは、きわめて重要であるといいたい。
 西欧の諺に「悪しき習慣は心の錆なり」というのがある。悪い習慣は知らずしらずのうちに、心の錆となり、社会のリズムに呼応できず、その人間を歪めてしまうものだ。
 特に、幼児期においては、見聞きするあらゆるものを吸収し、それを習慣として身につけていく。十九世紀ドイツの教育者で、幼稚園を初めて設け、不朽の名著『人間の教育』を書いたフレーベルは「人間の将来の全活動が、児童期には芽生えとしてみられる」(岩崎次男訳、明治図書)と言っている。
 この時期に、正しい習慣を身につけるよう、適切に教育し、導いていくことは、まことに大切なことといえまいか。善きにつけ、悪しきにつけ、幼少のころに身についた習慣は、なかなか直せるものではない。悪い習慣は、生涯、本人を苦しめ、正しい習慣は、なにものにも代えがたい財宝として、生涯、その人を助けていくことであろう。だからといって、私は何も難しいしつけをせよ、というのでは決してない。平凡な、ごく普通のことを、きちんと守らせるようにしてあげることが大事だというのである。
 できるだけ自分のことは自分でする習慣、人に迷惑をかけず、人と協調していく習慣、正しいことは進んで行っていく習慣等は、決して幼少のころだからといって無視していいわけはない。むろん、ヒステリックになる必要もなければ、愚痴めいた小言を言う必要もない。朝起きて顔を洗うこと、歯を磨くこと、外から帰ったら手を洗うこと、散らかしたものは元通りにしまうこと、それを折にふれて、自然のうちに教えておけば、それでよいのではなかろうか。
 時には、強く叱責しなければならぬ場合もある。それは、子供の生命にかかわることであったり、あるいは子供の将来にとって、どうしても強く言っておかねばならぬ時である。根底的には、子供を信頼したうえでの叱責であり、心からの愛情の発露といえよう。あとは、子供は自由奔放に、させてあげたらよいと思う。子供の世界は、ある意味では想像の世界である。夢は、宇宙を駿馬のごとく、駆けめぐり、見るもの、聞くもの、すべて驚きであり、新たなる想像を喚びおこす。この想像力、創造性は、人生にとって、かけがえのない至宝であり、私たちは、どこまでも温かく、はぐくんであげたい。
 子供はまた、知識欲が旺盛である。お母さんは、子供から「これなあに!」「どうしてなの」と矢つぎばやの質問責めにであう。ところが、母親は、とかくめんどうになって、ろくろく答えもしなかったり、時には「うるさいね、この子は」などと、言ってしまうことがよくある。これほど子供の心を傷つけるものはないのだ。純粋な成長の芽をも、みずからつみとっていってはならないし、その質問を大事な踏み台として、教育の道は大きく開かれていくことを知っていただきたいと思う。
6  以上、簡単に、若い母親の教育に対する心構えの一断面を申し上げたが、しょせん、教育は子供の人格を尊重するなかにあるということである。エマーソンが「教育の秘訣は生徒を尊重することにある」(市村尚久訳、明治図書『世界教育学選集57』所収)と述べているが、けだし名言である。
 最後に、どうか、若いお母さん方は、お子さんを、心身ともに健康な、溌剌たる人に育てていただきたい。せせこましい、小さな、神経質な人間をつくるのではなく、活きいきとした、自由闊達な、強い人間に育てていただきたいと念願してやまない。それにしても、現代の子供の教育は、母親自身みずからの人間成長に一切の鍵があるのではないだろうか。

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