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日蓮大聖人・池田大作

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母の慈愛  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  私の母は、七十六歳。明治二十八年生まれの一という名である。現在は、郊外で静かに老後の余生を送っている。
 八人の子ども(長兄戦死)を育て、他から二人の子を引きとって育ててきた。地味で、無学で平凡な母であるが、今は兄弟それぞれ所帯をもち、たった一人の妹も嫁いで、孫が全部で十三人である。
 子供を、みな健康に育てあげた、その母の人生は、勝利の人生ではなかったかと、心ひそかに喜んでいる。
 しかし、母は決して初めから、幸福であったとは思えぬ。父は子之吉(昭和三十一年死亡)といって、近所、親類から強情さまと言われるほど、頑固一徹な父であった。その父とともに、今日まで歩んできた母は、実に忍耐強かったにちがいない。
 私の子供のころは、家庭は大森にあって、当時、盛んに行われた浅草のりの養殖を営んでいたから、母の労働も、昨今の都会の婦人には想像できぬものがあったと思う。真冬、朝は暗いうちから、深夜まで、カゼをひいても休めず、仕事にがんばっていた小柄な母の姿は、今の私にも強い印象として残っている。
 一面、子供の教育には、なんの野心があるわけでもない。私の知るかぎりでは、将来の出世を夢みさせ、学位、学歴を望ましめるようなことは一言もきいたことはなかった。
 ただ、いかにも平凡にではあったが“人さまに迷惑をかけるな、ウソはつくな”ということだけは、やかましいほど言われたことを記憶している。だが、このことは、社会に出て、最も大切なことではなかったかと、感謝している。
 なんの虚飾もなくふるまい、ひたすら、子供たちの元気な成長だけを楽しみに、営々と働きつづけて、その目的を果たした母であるが、そんな母が、私はいちばん好きである。
 あの悪夢のような戦争の悲劇は、わが家もその例外ではなかった。四人の兄たちがようやく成長し、いよいよ母に代わって働きだしたころ、天皇のため、国のためといいながら、兄たち四人とも次々に応召していったのである。
2  こんなとき、軍国の母といわれ、涙ひとつこぼさず、笑顔をもって外地に送る母の心境は、どのようであったろうか。
 子供に対する、母の良さは、兄弟多しといえども、つねに公平であったことだ。食物の分配から、けんかにいたるまで――兄弟のどんな争いでも、すぐ善し悪しを判断した。そして、だれでも納得する適切な処置をとってくれる。まさに名判官だったのである。
 兄弟のなかでも病弱だった私は、兄たちよりも心配をかけたのはいうまでもない。戦後、私が夜学に通うころ、どんなにおそく帰るときでも、かならず起きて待っていてくれた。うどんを温めては“たいへんだったね。たいへんだったね”と、決まっていう一言に、無限の母の慈愛を身に感ずるのだった。
 今日、いくつになっても子供扱いで、私への贈り物といえば、すいすぎないようにという言葉をそえた煙草だが、それはだれの贈り物よりも尊く、そんな母親のなかに、何ものにも優る、純粋な強い愛情を見いだすのである。
 この私の体験から、母親をもたぬ子供はかわいそうである。成長期の心に、言いしれぬ陰を残すにちがいない。たれびとたりとも、母に代わりうべき人はいない。だから、私はいつも“母親は死んではならない”と強く言うのである。子供の苦労を思えば、母親は生き抜くこと自体が何よりも大切なことなのである。
 「女は弱しされど母は強し」とは、よく人々の口にのぼった言葉であった。しかし、どうも、現代ではそれが逆転してしまったようにも思える。
 戦後、「女と靴下が強くなった」という言葉が、一時流行したことがあった。たしかに男女同権、婦人参政権の獲得など、女性としての権利が著しく伸長した時である。だが、これらの諸権利は決してそのまま女性の内面的な充実や、成長を意味づけたといえない。むしろ、女性として、本来の生き方のうえで、弱くなったのではないかという疑問さえいわれてくる。一人の子供さえも、満足に育てきれぬ母親では、あまりにも意気地がなさすぎるからである。
3  母親の愛情ほど強いものはない。この母としての愛情のなかにこそ、女性の強さは永遠に生きていくものといえまいか。それが女としての強さは別として、母親の責務を果たせなくなったのでは、真実の女性らしさの喪失と言われてもやむをえない。
 あの封建時代に、家長絶対主義の男尊女卑のなかにあっても、じっと耐え抜いた強さは、母なればこそであった。姑 や小姑にいじめられ、あきらめる以外に生きる方法のないときでも、母親の忍耐強さは、子供を思う愛情によって支えられていたことだろう。子供のために生き抜く、それは母親としての強い信念となっていたからである。
 明治時代の母として象徴されるものは、前時代からの武家の家柄を重んずる厳しいしつけであり、ある場合には、商家にあって一家を切り盛りする経済観念であったかもしれぬ。だが、それらの底流には単なる気丈なだけでない、母という力があったことは疑う余地はない。
 大正デモクラシーの新しい自由の波は、堅い桎梏から女性を解放し、近代女性の夜明けをもたらしたが、その新しさの混交するなかにも、古い伝統と風習はそのまま継承され、儒教的倫理が基調になって、変わらぬ流れをつくっていた。
 戦後はどうであろうか。その家族制度も儒教倫理もすべて崩壊し去った。そしてそれに代わるべき何ものもない。ゆえに本来の、母親としての愛情すらも、大きく揺らいでしまったのであろうか。
 私は大家族主義を決して讃美しない。近代社会への脱皮は、個人の自我をめざめさせ、独立した人間存在を明らかにしてきた。これこそ時代の大いなる必然性として、とうぜん理解すべきことであろう。そして生活の単位も家族から個人へと移り変わってきたことも必然である。夫婦だけの新所帯が急増し、新しい家庭環境づくりに、人々は新しい理念と、方途を見いださなければならぬ時代に、いつか入っているのだといえよう。
4  実に、生活における伝統という基盤から家庭を考えるとき、なんらかのかたちの承継として、もう少し生かすことに、意を使うべきではないかと思う。親からの遺産は、何も財産ばかりとはかぎらない。優れた生活文化もまた、その民族にとって、大きな遺産であるべきだ。よって多くの経験と年月を経て、生き残った習慣のなかには、生活として多くの美点を含んでいる。新しい文化はつねに、伝統の上に築かれていくからである。
 姑が嫁に教える野菜の煮つけ方や、漬けものの作り方に、かつては、その家庭独特の経済的な栄養学があり、ほのぼのとした家庭の雰囲気がつちかわれてきた。明治の母親たちのにおいは、そのぬかみそくさい手の中にあったともいえよう。節約は主婦の手数で補われ、それが土のにおいのする温かい家庭環境であったのである。
 ところが、最近は、たくあんから総菜にいたるまで、出来合いのビニール袋入りである。いかにも合理的であり、近代化された家庭生活とはいえても、何をもって家庭生活の環境づくりとし、母親としての愛情の表現としようとするのか。大いに考えねばならぬ点もあると思われる。
 このような母親の喪失がそのまま人間性の喪失に通ずるものであることを憂えるのは、私一人ではあるまい。

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