Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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家庭と社会のつなぎ目  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  私の恩師は、よく婦人たちを指導していた。――朝、主人が出勤する時間だけは、喧嘩はよせよ。出勤間際に、女房におこられると、一日クシャクシャして、とてもよい仕事なんかできるものではない。電車に乗ってもおもしろくない。新聞や雑誌をパラパラめくってもピンとこない。せっかくはりきった一日の仕事のプランも、次々とフイになる。
 朝だけは、たとえどんなにくやしいことがあっても、「いってらっしゃい」と笑顔で送り出すものだ。がまんしてでも、そうすることだ。――
 まことに、玄関先の出勤間際の一瞬というのは、実は家庭と社会とのつなぎ目の大切な一瞬である。このつなぎ目が支障をきたすと、社会と家庭の流通関係が、ダメになる。家庭への血行は止まり、貧血症状を呈することになる。
 この朝の社会とのつなぎ目の機微を説いた恩師は、さすがであった、と私は今さらのように思い返すのである。
 たとえ、一日の仕事が終わっても、朝の出勤間際の不愉快さは消えるものではない。いや、宵闇がせまるにつれて、朝のわが鬼婆の顔の映像は、さらに色濃く浮かんでくる。
 えいっ、一杯飲んでやれ、ということになり、悪友には事欠かない。ときには同病相憐れんで、飲みまわり、深夜のご帰館ということになる。
 女房は女房で、一日テレビを見ても、洗濯をしてもおもしろくない。夜がふけるにつれて形相は険悪になり、そんな状態で待ちかまえているところへ、ご帰館となるのだから、たまったものではない。
 二つの不機嫌は輪に輪をかけて、朝をむかえる。これほど無意味で陰惨な悪循環というものもないものだ。これが重症になったとき、思わぬ家庭悲劇も起きかねない。
 もとをただせば、朝のあの一瞬の気まずさが生んだものだ。家庭の空気は一変する。その余波は、鋭敏な子供たちに伝わらぬはずはない。
 今のベトナムなどは、世界家族の中で、勝手に大人の犠牲にされた小国の悲しさではなかろうか。
 私は子供の前では、妻と決して喧嘩しないように心を使っている。――私の小学生のころ、両親がなにかで喧嘩をした。私はその余波をかぶり、実にたまらない気持ちであったところへ、そのとき、仲のよい友だちが迎えにきた。私のやるせない気持ちは、恥ずかしさと混じって、なんともいえないものになったことを、三十年すぎた今でもはっきり覚えている。これほどの痕跡を無垢な子供の脳裡に残すところを考えると、子供の前なんかで、とても喧嘩はできない。
 夜の帰宅の一瞬も、また朝にもまして大切だ。
 靴をぬぐが早いか、「あなた、こんなに遅くどこへ寄ってきたの……」とくるのと、「お疲れになって……さあ、ゆっくりお食事をなさって……」と言うのと、いずれが亭主族に蘇生と勇気を与えるかは、自明のところである。
 世に良妻賢母たることは、朝と夜の、出勤、帰宅の一瞬に、いかに心をくだくかということに、かかっているようである。

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