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日蓮大聖人・池田大作

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若々しく純粋に生き抜きたい  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  私の生き方の信条を一言にいうならば、青年らしい誠実さをもち、あくまで庶民の味方として、庶民とともに一生を貫き通したい、ということである。
 私は江戸っ子の常として、物ごとを隠しだてしたり、真相を偽ったりすることが、大きらいである。
 あまりに明けっぱなしで、まわりの人から苦言を呈されたり、忠告されることが、しばしばである。しかし、私は、それを改めようとも思わないし、改められる性分でもない。
 しょせん、人間は、生地のままに生きることが最も楽しいものだ。偽ったり、飾ったりしようとすると、そこにいきおい無理が生ずる。どんなに高位高官につき、栄耀栄華を極めても、虚飾があるかぎり、絶対に心からの幸福は味わえぬ。
 モンテーニュの言葉に「世に女ほど美しいものはない。ところが彼女たちは、かえって技巧の方を尊重しお化粧ばかりする」(『モンテーニュ随想録第三巻』関根秀雄訳、白水社)というのがある。
 女性の場合、身だしなみとしての、お化粧は、当然必要なことであろう。だが、必要以上にケバケバしく塗りたてているのは、かえって醜くみせるために、努力しているとしか、言いようがない場合もあるようだ。
 自分を必要以上に飾って、実物より立派に見せようとするのは、なにも女性にかぎらない。男性にも、この傾向は、また別の意味で、女性以上に強いともいえないだろうか。
2  いずれにせよ、私は、モンテーニュの言葉を借りて、次のように言いたい。
 「世に人間ほど美しいものはない。ところが人間たちは、かえって、技巧の方を尊重しお化粧ばかりする」と。
 ありのままの人間――これは、醜いときには、これ以上醜いものはないが、誠実な、美しい人間性は、またこれ以上に美しいものはないはずだ。そして、これ以上に、感動的なものもないと思う。
 イギリスの往年の大政治家、ディズレーリは言った。
 「誠実にまさる知恵はない」と。
 不誠実な政治家に悩まされている、われわれ日本人にとって、この言葉が政治家の口から出たこと自体、意外な感がするが、私は、この言葉にまったく同感である。
 私は、幸いにして、多くの友人知己を得、また海外にも、あらゆる国々の、あらゆる分野の友だちをもつことができた。そのなかから、ひしひしと痛感することの第一は、虚飾をかなぐりすてた、裸と裸の人間のつながりこそ、最も強く、最も美しく、最も尊いということである。
 はじめは、どんなに敵意をいだいているような人であっても、こちらが真実と誠意をもって接していけば、必ず好意に変わってくるものである。
 言葉の通じない外国人でも、誠意だけは敏感に伝わっていくものだ。人間の本然的にもつ直感の能力でもあろうか。その敏感さは恐ろしいほどである。
 こうした、最も身近な心のつながりが人類にあれば、互いに憎みあい、殺しあうことなど、どうしてできようか。
 私は、世界平和だの、世界連邦だのと叫んでみても、結局は、こうした人間性の次元での問題解決のいかんに帰着していく以外にないと思う。
 私は、どこまでも庶民とともに、庶民の味方であると自覚している。これまでも、そのように生き、また戦ってきたし、これからも永久に、弱い人たちの絶対の味方として、横暴と虚偽の為政者と戦っていく決心である。真実の民主主義は、多数の庶民の幸福が、基盤となってこそできあがると確信しているからだ。
 昔は、庶民といえば、必ず下品、粗野、安っぽい等の形容詞がつけられていた。
 しかし、それは民衆から浮き上がった華族や、士族の偏見によるもので、民主主義の現代に、今なお、そんな感情をいだくものがありとせば、時代遅れであり、錯覚もはなはだしい。
3  私自身、庶民の生まれであり、庶民の育ちであり、本当に幸せだったと思う。
 ゆえに、庶民というものに限りない愛着をもっているし、庶民とともに生き、庶民の味方として戦うことを最高の誇りとしている。
 だが、民主主義の時代というのに、まだまだ庶民は、あいかわらず犠牲を強いられてはいないだろうか。
 政治は“国民不在”のまま腐敗し、悪臭を放っている。
 経済も大企業中心のはなばなしい高度成長のかげに、計り知れぬ庶民の犠牲を生み出してきた。
 資本家や政治家等の、わずか国民の一割か二割にすぎぬ特権階層の利益のために、八割から九割におよぶ庶民大衆の犠牲が強いられているといえないだろうか。私はこの実態を見るたびに残念であり黙っていられなくなるのだ。
 もとより私には、庶民のだれかれと同じく、一票の投票権と、憲法によって保障された基本的人権以上の、なんの権力もない。
 弱いといえば、確かに弱い庶民ではあろう。
 だが、考えてみたい。天を摩する高楼も、最低部の土地に支えられて、初めて、そびえ立つことができるのではないか。
 宰相、高位高官、強権といえども、庶民大衆の支持があってこそ、その威力を発揮することができるのだ。
 ゆえに、最も偉大な力をもっているのは庶民であるはずだ。庶民こそ母であり、主人なのである。世にいう権力者とは、この庶民の子であり、下僕にすぎない。
 それが、主権在民、民主主義というものの本義であろう。
 民主国家とはいえ、日本人の心の中には、現在も、なお、政治家や官僚に対し一段高いところにおいてみる考え方が抜けきらないようだ。
 昨今の政界や財界を覆っている“黒い霧”も、結局、こうした権力関係の倒錯から生じたものにほかならない。
 ともあれ、私たちは、自分の手で、本当の民主主義の、新しい時代を創らねばならない。
 自分たちのために。
 次の時代を担い、次の時代に生きゆく若い人々のために、私は、せめて私の分野において、全魂をかたむけて、明るい、正しい社会の建設に努力したいと思っている。
 私の人生が、十九歳の時、私の恩師にお会いして、大きく変わったことは、前にも述べた。
 私は、偉大な師匠のもとにあって、青春時代を過ごすことができた。この一事だけでも、私は世界一の幸せ者だと自負している。今、私の胸中には、恩師の薫陶が生き生きと脈打っている。
 それは「この世から“悲惨”の二字をなくすこと」であった。
4  また、あるとき、恩師は、「もっとも偉大な人とは、結論するに、青年時代の信念と情熱を、生涯、失わない人だ」とも言った。
 目標が、結果として理想であったとしてもいい。私も生涯、青年らしく、若々しく、純粋に生き抜きたい。そして、少しも停滞することなく、つねに前進と、向上をしつづける人生でありたいと願っている。
 ある小学校の校長は、六十歳を過ぎてから、真剣に英語の勉強を始めたという。
 また、イギリスあたりでは、年輩者になっていても、多くの人々が大学でふたたび勉強していると聞く。
 なお、いかに多くの人が、自己の信条を貫き一生を飾るために、苦難を打ち破って雄々しく生き抜いていったことか。
 いわんや私は、まだまだ若い。
 精神的にも、肉体的にも、青年である。
 私は最も平凡な青年である。そしてつねに青年と語り、青年とともに行動している。
 私は青年をだれよりも尊ぶ。なぜなら、それは現在において世界を支えているのは青年であり、未来において、理想を指さし、世界を動かしていくのも青年だからである。
 「青年とは、建設時代の異名である」
 と、よく私は後輩を激励する。
 それは本人自身の完成と、そして幸福のため、さらに社会の建設ということを含めて。 これはまた、私自身に言い聞かせている言葉でもあるが──。

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