Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一枚の絵  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  私の自室に一枚の絵がある。それは、色刷のエッチングを額におさめて懸けたものだ。私が、絵というものを、部屋に飾った、最初の額なのである。
 平凡といえば、これほど平凡な絵もないかもしれない。だが、私には懐かしい記念のものである。――一人の初々しい娘と、これまた若さ以外に、なにもないような溌剌たる紅顔の青年が、部屋の隅でなにか話しているものだ。その娘の傍には、紡ぎ車があり、白い糸巻が、鮮明である。古風な、長い衣裳をまとった娘は、前掛けをかけた働き者であるらしい。青年は、ふと思いたって、娘のところに駆けこんできたところであろうか。青年を見つめる娘の表情は、可憐なまでに愛らしい。その青年の頬は輝き、敏捷な肢体は椅子に座ることを忘れている。二人は、自分たちの、輝くばかりの若さに気づいていない。作者の画家の眼だけが、その若さの美しさを信じ、それを知って描いたといったところだ。……
 こんな絵だが、無心の若さというものが、実に小気味よいまでに、あふれている。青春の衒いとか、恥じらいとか、ギゴチナイ思惑といった余計なものは、この画面には一切見あたらない。あるのは、ただ、初々しい清冽な情熱を秘めた純粋な抒情が、音をたてて流れているという情景である。この無心にして、切実な若さというものを、私は珍重するような気持ちで、折々この額に眼をおくって八年になる。まだ、懸けかえる気にはならない。いな、きっと生涯側におくであろう。
2  私が、この一枚の絵を手に入れたのは、パリのとある街頭であった。――昭和三十五年秋、初めてヨーロッパへの旅をした時である。パリの街々を歩いていると、まるで旧知の都にでもきたような不思議な親しさを感じてならなかった。明らかに錯覚であるとは、承知していたものの、おかしな気分であった。ある日、晴れた秋空の下、ある公園のなかを散策している時、私の錯覚が、何に由来するかを、ふと知ったのである。
 この街、この公園、私がいかにも知っていた気持ちになったのは、ユゴーの『レ・ミゼラブル』があったのだ。二十歳前後に、耽読していた私は、この大ロマンの舞台であるパリの都に、いつの間にか慣れ親しんでいたわけである。私の錯覚としたところのものは、それを想い起こしていたにすぎなかったのだ。
 『レ・ミゼラブル』が名作たる所以を、パリに来て、あらためて知った思いがして、眼に映る風景は、にわかに親しさを増し、私はあたりをいくたびも見回すのであった。
 公園の前には、観光客を目当てにしたスーベニール・ショップが、ズラリと並んでいる。私の足は、それらの店に向かっていった。そのなかに一軒の小さな画商があった。いくつもの絵が、懸かっていたが、大部分は名作とおぼしいものの複写であった。どうせ複写ならば、まず版画や、エッチングのそれのほうが、まだましであるといった気持ちで、数枚を買いもとめたのである。一枚千円ぐらいのものであったろう。この数枚のなかの一枚が、今も額におさまっている若い娘と、若者の絵である。
 『レ・ミゼラブル』の連想から、折も折、手に入れた、この一枚の絵の若い人を、私は自由の戦士マリウスと、ジャン・ヴァルジャンが手塩にかけて育てた孤児のコゼットの二人になぞらえて眺めることが、いつか身についてしまったのである。
 『レ・ミゼラブル』――パリ――一枚のエッチング――「マリウス」と「コゼット」――額の中の絵は、この連想の糸をかたく結んで壁に懸かっている。そして、いつまでも若々しく、青年の瑞々しい純粋な持続を、生涯失うまいとする私の心の鏡になろうとしている。
3  生命の永遠の輝きというものは、このような青春の、純粋な持続にほかならぬと思うからである。歳はとるであろう。これは誰人も、どうしようもないことだ、今、青春を乱舞している、すべての人も。しかし、精神は老いたくない。円熟などと、ごまかす人生を、私は送りたくない。生命の真実の姿は、滅、不滅を現じつつも、永遠に不変であるはずである。
 私の事務をとる会館に、一枚の絵が懸かっている。私の好きな、東山魁夷の作品である。それは、デンマークの「鹿の園」の橅(ぶな)の森の中の『青い沼』という絵だ。
 自然の風景が、みずから訴える抒情を、見事にとらえた、稀有な名手を、東山魁夷のほかに、私は知らない。この絵の、風景が内包する確固たる生命の美しさというべきものが、静かに、深く、私に語りかけてきて、いつまでも飽きないのだ。
 いかなる一本の木も、氏の手にかかると、一つの性格さえ帯びて、そのすがすがしい瑞々しさを発散する。
 『青い沼』の橅の太い幹は、静まりかえって、青く澄んだ水面に、じっと黒い影を落としたまま、樹の生命を、鮮明に語っているようだ。そして、この一枚の風景画のなかにも、風景と、画家との万物肯定の対話が息づいている。温かく、静かで、感動にみちた画家の心までが、脈打って生きているのだ。
 一つの風景の個性を、その内包する生命でとらえるとき、それは宇宙に通ずる雄弁となることの実証とさえ、私には思える。仏法でいうところの「海印三昧」という、思議すべからざる境地は、おそらく、このような境地であるかもしれない。
 一枚の絵について語ろうとして、つい二枚の絵を語ってしまった。その罪は私にあるのではない。東山魁夷の一枚の絵が、強引に発言を求めて、きかなかったからである。

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