Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一枚の鏡  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  私の手元に一枚の鏡がある。ほぼ掌大の硝子の破片といえば破片にすぎない。その裏表には、こまかいカスリキズがいっぱいある。しかし、物体を映すには事欠かなかった。どこのゴミ捨て場でも、いくらも見受けられるやや厚目の鏡の破片であるが、私は、これを手放すことはできない。
 私の父母は、大正四年の結婚であったようだ。この時の嫁入り道具の一つとして、良質の鏡をはめた鏡台があった。鏡面は曇りなく歪みなく、花嫁姿の母を映したはずである。――二十数年たった時、なにかの拍子に、この鏡が割れた。居合わせた長兄の喜一と私は、鏡の破片のなかから適当なのを、それぞれ貰って自分のものとした。つまり破鏡の一片である。
 時代はやがて戦争に突入していった。四人の兄たちは、次々と出征していってしまう。ある者は中国大陸に、ある者は東南アジアで戦っていた。四人の男の子を戦争に奪われた母は、悲しみにじっと堪えていたが、急に老いた。
 やがて空襲下の毎日となった。私は、母の顔を見るのが辛かった。私は、母の命を護るかのように、この破鏡の一片を肌身はなさず胸に抱き、焼夷弾のなかをくぐり抜けたこともある。
 戦争が終わって、長兄のビルマでの戦死が確定的となった時、私は兄の胸のポケットに、入っていたであろう一枚の鏡を思い出さずにはいられなかった。兄は戦場のひと時、自分の髭面をその鏡の破片に映したこともあったろう。そして、故国の母にはるかに想いを馳せて懐かしんだにちがいない。もう一つの鏡の破片を分かち持っていた私には、その兄の心情が痛ましくもよく分かる。私は私の鏡を手にして兄を偲んだ。
2  敗戦後の荒波のなかで、私はあえて家を出た。そして、アパートの狭い一室に暮らすことになったのである。殺風景な、貧しい部屋には鏡一つなかったが、鏡の破片は、机の引き出しにしまっておいた。朝の出勤前に、この鏡にわが痩せた顔を映して、髭を剃り、髪を梳り、ポマードを塗るには差し支えなかった。一日一度、この鏡を手にする時、私はいやでも母を想ったのである。心の底で自然と呟いていた。――お母さん、お早よう、と。
 一日に一度、決まって母を想う日常は、今考えれば、青少年不良化防止の最高手段であったようである。虚脱した社会のなかで、私は、ついに自暴自棄になる機縁を、ことごとく避けることができた。傷だらけの一枚の鏡のおかげである。
 鏡は、時に顔色のひどく悪いことも教えてくれた。健康の危機を知った私は、外食券食堂で二人分の食事をとった。また時には、頬骨の出た人相の悪い、わが顔を見て、ゾッとして反省したこともある。また時には、御機嫌のわが顔を見て、口笛を吹いたりしたこともあった。母の無言の心づかいとともに、当時の私はあったのであろう。一片の破鏡は、結局、私の世に処する姿勢を正していたのである。
 わが恩師は、十九歳の折、志を立てて、北海道の寒村から上京する時、母上は、一枚のアツシの袢纏を先生に与えた。――これさえあれば、どんな苦しいことがあっても、これを着て働けば、なんでもできるよ、と。
 白地に紺の模様をあしらい、糸で布地をこまかく刺したアツシは、母上の丹精と、まごころが縫いあげたものだった。恩師は生涯、これを手放すことがなかった。
 昭和二十年の終戦直前、恩師は出獄して、わが家に帰り、戦災を免れて、アツシも無事であったことを知ると、まっ先に奥様に語ったことは――あのアツシが、無事であるからには、おれは大丈夫だ、生活のことなぞ心配するな、ということであったという。
 古ぼけたアツシも、傷だらけの一枚の鏡も、母の祈りを伝えていた。不思議な力をもち、人間の弱い心を支えていたのである。古風な感傷と、人々は笑うかもしれないが、私にとって、この心情は、いささかも古風ではない。今も生きつづけている。アツシや鏡が、いささか古物と化しただけだ。
3  昭和二十七年、私が結婚した時、妻は新しい鏡台を運んできた。私の顔は、新しい鏡に映すことになったが、ある日、妻は破鏡の一片を手にして、不審顔で見ていた。ガラクタの廃品もいいところである。子供のおもちゃにしては、さっぱり魅力がない。屑篭行きの運命を、私は察知すると、初めて妻に、母や戦死した兄のこと、この鏡の破片にからまる歴史を語った。
 妻は、桐の小箱をみつけてきて、鏡をそれにしまって、無事今日に至っている。
 一本のつまらぬ万年筆といえども、それが大作家の遺品とあれば、数々の傑作の秘密を語っていよう。人々の注目を浴びることも当然なこととされている。
 私の一枚の鏡は、私自身の伝えがたい青春の日々と、母の祈りと、不幸な長兄のことを尽きることなく語っているようである。

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