Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学生問題に思う  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  ご承知のように、私の日常は多くの青年と親しく接している。それも東京だけではない。全国各層にわたっての青年たちとである。学生もいれば、会社員、工員、農漁村の青年たちもいる。また事務員や女子大学生、中小企業の女子工員といったように、現代の青年男女のあらゆる階層の人たちと話を交わしているつもりだ。時に相談に乗り、また人生や社会や生活について忌憚なく語りあっている。
 私も不惑を越えたところだが、青年特有の正邪に対する鋭敏にして純粋な感覚というものを、だれよりも尊重しているつもりである。そして、私は青年を絶対に信頼する。次代を担う青年を信頼することなくして、民族の未来もなければ、世界の将来も築くことはできないからだ。
 学園紛争は、まだまだとどまることを知らぬようである。日本全国はおろか、全世界の大学に波及している事実、しかもその破壊的な様相は、かなり重大問題と化してきた。その根の深い重大さを、為政者はどの程度に理解しているか。ほとんど無策であることを思えば、さらに事は重大である。学生を、破壊的な抵抗運動に走らせたものは、現代大学社会に瀰漫する積年の病弊と、矛盾にあることはだれの目にも明らかである。さらに、もう一歩、深く思いをいたすとき、彼らには今、心から信頼するに足る思想や理念がないということが、さらに彼らをゲバルトに駆りたてている、と私には思えるのである。
 過去の革命は、たとえどんなに破壊的であっても、その後に建設すべき不動の理念をもっていた。ところが今、学生活動家には、命に代えてもという、明確な高い理念がないのではなかろうか。あれだけの行動をするからには、信ずるに足るものがまったくないとは思わぬが、彼らが信じているという、その理念について、果たして心の底から信じて悔いない確信があるかを疑問とするのである。彼らの確信が、もし本物であるならば、そのことによって、多くの民衆が動かないはずはない。今、社会の大衆は、青年の純粋さに共感しながらも、その行動を納得していないのである。
 私自身、現代社会の不合理は、身につまされて知っているし、私は、私なりに、この不合理と病根との戦いをつづけてきたつもりだ。いな、生涯、この青年の気概で、その理想を貫きたいと強く念願している一人でもある。
 したがって、この点については、私は学生と同じ立場にある。現在、私の団体には二十万人以上の学生がいるが、そのなかには学園紛争のリーダーになっているものもいる。今の学園紛争の行動に、参加するかどうかは、個人の自由にまかせているから、リーダーになる学生もいれば、一人で、黙々と勉強をつづけている学生もいるだろう。しかし、いったん信心の立場からすれば、当然のことだが、活動家だの、ノンポリだのという差別意識はまったくない。私と彼らとの間にも、距離感は全然ないといってよい。
2  私自身の、体験に照らしてもいえることだが、青年を真心から愛し、信頼していったときは、かならず強い絆ができあがるものである。今の指導者たちも、また、大学の教授や管理者たちも、所詮は、学生への愛情と信頼がなかったところに、紛争がかくまで手のつけようのないものとなった根本原因があったのではないかと思う。
 それは、まず青年を青年として愛するということである。まじめで、おとなしいから大事にし、反抗するから嫌うとか、左翼思想にかぶれているから排斥するとか、レッテルを張って差別をしたり、一つの枠に押しこめようとするのは、自分本位のエゴイズムであって、真実の愛情であるはずはない。
 まじめだとか、反抗的だとか、ということは人間性のもつ、ごく枝葉の産物といえまいか。右翼思想とか、左翼思想というのも、生命というものに比べた場合には、些細な問題にすぎない。教育の目的は、人間を育てることである。些細な、枝葉末節にこだわって、人間教育を忘れては、もはや教育者は失格である。
 根本の生命観に立ち、大きく人間教育を考えていくならば、思想の問題や、個々の性格の相違は、とるに足りない些事として、根本的に人間の尊厳と、自由とが太く貫かれるにちがいない。
 人間を愛する――青年を青年として愛する、という言い方は、いかにも素朴で、複雑にこみいった紛争解決から縁遠いように感じられるかもしれない。しかし、道に迷ったときには出発点に戻れという故事もある。また、初心に帰る、ということは、全てに通ずる大切な戒めでもある。教育界も、この素朴な、人間本来の精神に立ちかえって、抜本的にすべてを考え直すべきではないだろうか。
 自民党政府の内部には、泥沼に入った学園紛争に業をにやし、警官の導入など強硬なる意見が高まっているようだ。だが、私は、それは自らの文部行政の無能をタナにあげた愚行であり、事態をますます紛糾させるだけであると思う。
 大学によって、事情は若干違うであろうが、紛争を起こして、社会不安を高めること自体を目的とするような“問答無用”の破壊主義者は、ごく少数にすぎない。彼らが、一般学生を動員し、今日の騒ぎを起こすことができたのは、それなりの欠陥と、不合理が現実にあるからである。
 したがって、解決の糸口は、まず、この欠陥なり、矛盾なりを是正して、病源を取り除くことが急務だ。いわゆる破壊主義者を孤立させ、反省させる道は、これ以外にないだろう。
 しかも、これらの破壊主義的な“問答無用”派の意図は、少数であっても、彼らの行動が起爆剤となって、広汎な革命運動を誘発し、既存の秩序を乱し、ただいたずらに崩壊のための崩壊に終わるということである。してみると、その意図を消しゆくものは、彼らの激しい行動にもかかわらず、社会全体、学園全体の秩序は変わりなく動いているという厳然たる事実を示すしかないと思う。たとえば、すでに卒業期を目前にして、うちつづく授業中断から、卒業延期――したがって新規入学者の試験中止という事態が、幾つかの大学で起こっている。これ自体、既存の秩序の混乱を目的とするものにとっては、見事に目標を達したことを意味するだろう。
3  私は、なにも政府の全学連対策を助けるつもりは毛頭ない。ただ、こうした事態によって、迷惑するのは、一般学生であり、新規入学の希望者である。貧しいなかを懸命に働きながら勉強してきた人も、数多くいるにちがいない。彼らの学業を妨げ、人生計画を狂わせる権利は、何人にもないはずである。
 革命を呼号する活動家学生にとっても、こうした人権蹂躪は、自己の理想への反逆になってしまうだろう。大学および政府当局としても、こうした大多数の学生の権利擁護のため、最善の努力を尽くすことが、その使命であると言いたい。
 したがって、これは提案であるが、政府および大学当局は、現在の学生に――多少の勉強不足は認めざるをえないにせよ――卒業ないし、仮卒業をさせてはいかがなものであろうか。正常に授業を行っても、ほとんど授業に出ないで卒業していく学生は、毎年たくさんいるはずである。
 それは個々の場合で、今回の紛争とは、事情が違うというかもしれないが、あくまでそれは形式の問題で、実質は変わりない。さらに、あえて前例を求めれば、戦時中の学徒動員が挙げられよう。
 授業不足が、どれだけマイナスになるかは一概に言えない。上級外交官試験の場合、合格者は、大学中退でも、そのまま官界入りしているようである。
 自然科学系の場合も、学問自体が急速に進歩しているから、大学で学んだ知識が役に立つのは、おそらく数年であろう。あとは、おのおのの専門畑で、自力で身につけていく以外にないのが実情である。
 いつの時代でも、結局、実社会でモノをいうのは、本人の意欲であり、たゆまざる努力によって身につけた実力ではあるまいか。
 なかんずく、これからの時代は、ますます実力主義的傾向を示していくことであろう。学問のあり方は、単に知識を詰めこむことをもって足れりとするのでなく、正しい物の考え方、正確な判断力を身につけさせ、優れた英知を涵養させるものでなくてはならないと思う。
4  次に学生諸君自身について考えたい。冒頭に述べたように、私は、目的観と、心情においては、現代の学生諸君と、共通の側に立つものであるし、したがって、その気持ちは充分に理解しているつもりである。しかし、現在のような破壊的手段のみでは、理想はかえって遠のき、とうてい実現することはできないであろう。
 現実に、国民大衆の大多数が、学園での暴力主義に眉をひそめ、学外での過激な活動に憤りさえ感じている。それでは、革命的大衆を立ち上がらせるための起爆剤という目的が、しだいに失われていってしまうであろう。
 少なくとも、革命を呼号する以上、大衆を敵にまわしては、いかなる革命もありえないことを知らねばならない。しかも、すでに高度に発達した複雑な機構をもっているわが国社会では、安直な破壊は許されないし、また、できるものではないと思う。
 かつてロシアの社会や、フランスのアンシャン・レジーム(旧体制)は、単純社会のうえに、ひとにぎりの支配者が栄華を貪っているだけであった。しかし、高度に発達し、多元化した現代社会にあっては、既存秩序の安定のうえに、繁栄を楽しむ人々が、圧倒的多数を占めていまいか。――幾多の矛盾と不合理から、不満が社会全般を覆っているとはいえ、細かく事情をみると、それらは複雑に絡みあっている。
 単純な、暴力革命の図式は、現代社会にはとうていあてはまらないし、人間尊重の精神からいって、断じて暴力行為は許されるべきではない。むしろ、事情の異なった、雑多な不満が複雑に絡みあっている現代において、そこに一つの共通項、あるいは淵源ともいえるものを求めるとすれば、それはとりもなおさず、人間尊重、生命の尊厳を確立していくことに尽きるのではなかろうか――。
 これからの時代の革命は、この人間尊重の精神を基調とした高い理念と、思想による個々の人間の精神革命でなくてはならないと私は思っている。一人の人間を、心より納得させ、変革できないで、どうして社会全体を変えることができようか。暴力による破壊は、相手の理性に訴え、納得させる理念と、思想とをもたない、人間失格者の用いる手段といわれてもしかたあるまい。それが、私は残念でならないのだ。
5  時代は刻々と変わっていく。時代は急速に流転していくであろう。今の頑迷な指導者たちも、やがて皆、姿を消し、その同じ席に、今の学生諸君が着かねばならぬ時代が、かならずくる。今は、真剣に学び、力を養い、人格を磨いていくことが最も大切ではないだろうか。少々、忍耐をすることだ。そして、現代の青年らしい純粋さ、邪悪と不合理に対する怒り、正義への情熱、これを一生わすれることなく、自ら桧舞台に立ったときこそ、思う存分に力を発揮していただきたいのだ。
 それこそが、学生諸君の理想を実現し、新しい光輝に満ちた新社会を建設する最も間違いのない道であり、諸君の人生を、最も充実した人生たらしめる唯一の方途であると私は確信する。
 最後に、これまでのことに関連して、家庭における教育の重要性について一言しておきたい。今の話題の焦点は、大学問題にあるが、私はその淵源は、大学以前にあると思っている。すなわち、小学校から大学にいたる学校教育ももとよりだが、家庭における教育こそ、最も見直されねばならないであろう。
 戦後の母親は、教育のことは学校に、と任せきりにしてきたのではなかろうか。あるいは、家庭教師をつけて、進学の勉強をさせることが家庭教育だと、勘違いしてきたのではないだろうか。そして、自由に放任することが、子供の人格を尊重することであり、民主教育の本義だと見誤っていなかったろうか。
 今の学園紛争の、活動家学生たちの行動は、すねて暴れれば、どんな願いでも聞いてもらえると思っている甘えん坊の子供と変わりないといった人がいる。また、いわゆる“ノンポリ”といわれる無関心派のなかにも、自分さえよければ、世の中がどうなろうと構わぬという、エゴイズムの塊のような人がいるとみるのは、これは私一人の偏見だろうか――。
 人間形成にとって、もっとも大切な時期は、五歳ごろまでの幼児時代といわれる。この間の教育の主役こそ、他ならぬお母さん方自身なのだ。しかも、人間は、幾つになっても、どういう立場になっても、愛情をこめて育ててくれた母親には、頭が上がらないものである。
 戦時中、弾丸の雨のなかに身を投じていった兵士たちが、最期の瞬間に、瞼に浮かべたのは、やはり母親の顔だったという。
 私は、母親は、生涯、子供の人間完成へのよき教師であり、導き手であると思うし、すべてのお母さん方は、その自信を強くもっていただきたいと念願するものである。

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