Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

平和について思うこと  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  いったい、今、世界は平和へと進行しているのであろうか。それとも、戦争の道に逆行しているのであろうか。だれもが、心配し危惧しているが、だれにも分からない。
 アメリカの中間選挙で、共和党が大幅に伸び、ジョンソン大統領の民主党は、かなりの痛手をうけたようだ。米ソの対立は、徐々に緩和しているものの、これに代わって中国の台頭があり、米中戦争の危機が昂まるなど、国際緊張は新たなる段階に入っているといえよう。われわれの、平和への悲願は、黎明はいつになったら到来するのであろうか。
 およそ狂気でないかぎり、平和を願望せぬ人はないはずだ。戦争ほど、高価なムダ使いは、まず、あるまい。人類が平和に暮らさねば、まったく損である。日本が太平洋戦争で、どれほど莫大な富を消費したか。いな、財産よりも、もっとも尊い、多くの有為の人材を失ってしまったではないか。
 今も、アメリカは、未来に生きる青年たちを戦場にかりたて、死へ追いやっている。希望に満ちていたであろう彼らを想うとき、かわいそうであり、残念でならない。ベトナムの青年についてもまた同じである。
 なぜ、このように、人間は戦争をしたり、葛藤の歴史を繰り返すのであろうか。その理由として、だれも挙げるのが、利害の対立、思想の相違である。すべての戦争がこれらの原因によって正当化され、そして遂行されてきたのである。
 だが、核兵器の出現をみた今日、また当然なる人間の生存権からいっても、どう言いわけをしようと、戦争それ自体が、最大の悪であることは明確である。
 私は言いたい。利害の対立を、奪い合いによって、決しようとした時代は、すでに去った。それは自らの智慧によって創造することを知らぬ人間以前の倫理である、と。
 価値は、奪うのではなく、創造によって得べきものである。奪うことしか知らぬ世界は、泥棒や海賊の社会である。これこそ、近代という洋服を着た野獣の集まりと言わざるをえない。
 一家であれば、家族全員が協調し、生業に励んでいくのが道理である。病人や、子供がいれば、これを扶助する。そこに家庭の平和がある。地域社会や、国家も同じではなかろうか。
 ここに刮目し、さらに一歩進んで、国際社会において、国々が協調し、相互に扶助しあっていくならば、文明の進歩、偉大なる社会の建設は、めざましきものがあると確信してやまない。
 かつて、日本の国は、武蔵の国、甲斐の国等に分かれて、互いに争っていた。それが、一つにまとまって、今日の日本となっている。同じ方程式で今、世界は、アメリカ、ソ連、中国等に分かれている。だが、やがて国境を超えた世界連邦へと、大同団結していくのは歴史の必然性であると思う。
 交通、通信機関の発達、科学技術における宇宙時代の開幕等、その条件はすでに整っているといえる。EEC(現在のEC)にみられるように必然性の機運が熟しはじめているのだ。そこで、これを世界連邦、恒久平和の確立へ結実させるためには、どうしても基礎となる世界民族主義の理念と、現実には第三勢力の台頭が必要となってくるといえるだろう。
 世界民族主義は、全人類が、まず一つの運命共同体という強い意識をもつことから出発する。現在人類は、平均して、同一民族内では、この共同体意識に到達している。したがって、今は、いわば民族主義時代ともいえよう。
 だが、次代は、もはやゲルマンだの、スラブだのと対立しあっていく時代では決してない。どうしても、世界全体を包含した一つの共同体意識に立たねば、平和も幸福も、繁栄も、ありえなくなってしまうであろう。
 この大理念、大哲理をもって、対立抗争の世界に、クサビを打ち込んでいく力強い第三勢力が出現しなければならぬと思う。私は日本こそ、その使命を担った国であると信じたい。そのためには、第一歩として、日本の政治家のさらなる見識の深化と人格の陶冶を望みたい。日本の国際的威信も、世界人類への貢献も、ここから出発するからである。

1
1