Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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年輪  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
3  このことに気のついた人が、リンカーンである。彼は言った。
 ――四十歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任をもたなければならない。
 この言葉は、今では言い古されて、手垢のついたものとなった。しかし、リンカーンの、あの鬚面をしみじみ見ると、この言葉の意味が分かってくる。彼の顔には、たしかに年輪のもつ風格と、その美しさが現れているようだ。長い年月の風雪に立派に耐えて、それを乗り越えたような美しさが見える。これは気のせいではない。たしかに年輪の顔である。
 また、トルストイの青年時代の写真と、晩年の写真を見くらべてみてもよい。青年トルストイの顔は、天才であったかもしれぬが、後年にくらべて、なんとも凡俗である。それが、老人になるにしたがって、気高い相貌をそなえてくる。自分の顔に責任をもった顔だ。たしかに、人生の年輪を語っている確かな顔である。円熟しようなどとヤニさがった顔では決してない。懸命に生きて、老醜をいささかものぞかせぬ顔である。
 人間の年が、人体に現れるところといえば、どこよりもまず顔であるらしい。それから脳味噌の皺であろうか。この皺は、年輪のように立派であるにちがいない。脳味噌は、ちょっと覗けないが――顔ならいつでも見ることができる。顔の皺などは、年輪の曲線にあたるかもしれない。しかし、多くの場合、皺は老醜を思わせる。皺の美しい顔が、年輪をそなえた稀な顔ということになるだろう。
 一九六八年の地球の年輪を考えているうち、いつか人生の年輪の話に落ちた。
 四十歳を超えた責任ある方には、新しい年を迎える前に、ご自分の顔の年輪を、しげしげと鏡に映してみるのも一興と思うが、いかがなものであろうか。――わが人生の真の年輪はいかに、と。
 人のことばかり言っていられない。昭和三年生まれの私も、はや四十歳を超えようとしている。

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