Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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貧と富  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  自民党の総裁選の季節が、また、めぐってきた。物見高い見物者たちは、なにかと口うるさいことであろう。しかし、日本の政治の実態を知り、その腐敗に思いをいたすものにとっては、茶番劇のニュースにしかすぎない。
 現今の日本の実相は、いったい何かといえば、だれでも知っている問題――国民総生産高では、世界第三位でありながら、一人当たりの年間所得となると、たちまち第二十三位に下落してしまう国柄である。この厳しい落差の現実が、日本の一切を物語っているようである。
 いったい、日本は、富んでいるといってよいのか、貧しいといってよいのか。遠くから日本列島を眺めてみれば、アジアでもっとも繁栄した国にみえる。ところが、一人一人の日本人に会ってみれば、その繁栄は、幻のごとく消え去ってしまう。
 日の射さない、家族がひしめきあっている狭い住宅、カロリーの低い食物に甘んじていなければならない多くの庶民。人間が多すぎるから、平均所得が落ちるというのか。移民でもして、大々的に人口が減ったら、個人所得が上がるというのか。これこそおかしな話だ。いや、いや、この多すぎる人間が、蟻のようにせっせと働いているからこそ、どうやら世界第三位の国民総生産高国の体面を保っているのではあるまいか。もし人が少なくなれば、それだけ総生産高は下落してしまうだろう。思案の算術ははてしない。
 国民が貧しいのは、戦前だけの問題ではなく、戦後も、なお同じだという哀しい現実が、裏づけられたといえよう。このジレンマは、実に根が深い。――明治の文明開化は、国策として、富国強兵策を標榜したが、強兵に熱中しているうちに、いつか貧国強兵の大日本帝国を生んでいった。そして、この矛盾の上に無理に無理をかさね、気が狂ってしまい、ついに破滅への道を、一目散にたどってしまったのである。
 ところが、あの悪夢のごとき強兵策の必要が、さらさらなくなった戦後、日本は当然、算盤勘定からいって、富国富民の文化国家になるはずであった。たしかに国は繁栄はした。だが、多くの国民は相変わらず貧しく重税に喘いでいる。戦後二十三年の今日、世界に稀にみる、富国貧民の国となってしまったのは、なぜであろう。
 政治の貧困を口にするのはやさしい。しかし、政治に貧困をもたらしたものは何かを考えねばなるまい。それは単なる政策の貧困でもなければ、人物の貧困でもない。問題は、今日の政治家のいだく、政治理念の貧困にあるのではないか。貧しい理念が、いつまでも、貧しい政治しか生み出しえないでいるのではないだろうか。
 現今の政治家のなかで、汚職捜査の進展に不眠の夜をおくり、処世術に悩む政治家はあっても、富国貧民の不可解な現実を凝視し、夜も眠れぬほど悩んでいる政治家が一人でもいるであろうか。私は、はなはだ疑わしいと思っている。
 激動する世界情勢にただ一喜一憂し、政治の理念は、まったく喪失してしまっているとしか思えない。
 子供のごとき頭脳は、他国の核の傘下での安全しか考えない。地球は回っているのだ。人工衛星はどこへでも行ける。やがて月へも行って、還ってくる時勢になるだろう。いったい、この狭くなった地球の、どこの一隅に、安全な核の傘などというおめでたい傘があるというのか。
 要するに、考えることのポイントがどこか狂っているのだ。正しい理念というものは、まず考えるポイントの正しさから生まれるといえよう。ポイントを、わが身の栄達におくか、世界の平和におくか、一階層の権力の保持におくか、他国への憎悪と侵略におくか、そのポイントの決定が、やがてすべてを決定するのである。人間は、どんな偉大な理念も、卑小な理念も、生みだせる。
 だから現実だけをみて悲観する必要もない。決して望みなきにあらずで、この点、実にありがたい生き物だといえる。正しいポイントは、正しい理念を生み、正しい理念は、正しい政治を生みゆくであろう。
 富国貧民という、日本の動かすことのできない現実を、無垢な眼で凝視するとき――ここにポイントをおくならば、だれもが社会の繁栄と個人の幸福とを、一致させねばならぬと考えるにちがいない。それが不可能な空想の幻影に見えようとも、現実が、それを執拗に要請しているならば、そこからまさに偉大な理念が生まれ、実践が生まれるにちがいないと思うのである。
 国が富むならば、国民の一人一人もまた、富むのが当然の理である。ところが、このアンバランスは、どうしたことであろう。原材料輸入国という資材の貧困な国土のためだろうか。世界には、資材の貧困な国でありながら、生活水準の高い国はいくらでもある。三位と二十三位との落差は、ひどすぎるといってよい。わが国の危機は、安全保障問題だけにあるのではない。この落差の実態にこそ、根深い禍根がある、と私は思っている。
 なにかの犠牲が、貧民を生んでいるのだ。この事実に気づかず、調和と節度が、大切だなどと言っている政治家は、なにかの案山子にすぎないだろう。案山子と知れば、利口な雀は驚かない。案山子の政治家たちには、民衆はそっぽを向くのも当然だ。現代漫画の一風景がここにある。
 この落差に戦慄し、大衆を富ます施策に、政治家はだれが、いったい心を砕いているのだろうか。在外為替資金の帳尻だけに、一喜一憂しているのが、財界有力者の頭脳ではないはずだ。政権をあずけ、預金を積み、せっせと蟻のように働いている国民こそ、悲劇といわなければならぬ。
 ともあれ、現実は、思いもかけない落差資料をもって、迫っている。富国貧民の現状を、脱皮するために、今こそ、社会の繁栄と個人の幸福との一致を真剣に考え、一歩一歩、着実な実践に踏み出すことをいやでも教えているのである。宇宙の旅行を可能にする頭脳があるところをみれば、この社会の繁栄と、個人の幸福との一致という焦眉の急を要する命題の解決も、人間の頭脳にとって不可能ではないはずである。為政者たちは、この問題について、真剣に考えていないのではなかろうか。

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