Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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現代の傲慢  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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1  人間――この不可思議なもの
 人間疎外、人間不在、人間性の喪失――などという言葉が、現代の人々の口にのぼってから、すでに久しい。飽きもせず、ただ繰り返されているうちに、これらの言葉も観念の遊戯に堕して、いつか、手垢のついた鈍い言葉となってしまったようである。
 早い話が、現代の生気を失った人々の群れを見て、あれは人間不在の顔をしているなどと深刻ぶって批判はしても、そういうご当人の顔の非情さには、さっぱり気がつかない。気がつかぬどころか、鏡を知らぬ人種のように、悩み、苦しんでいる人々を睥睨しさえしている。このような日常の世相に、現代社会の不幸の実相が、滑稽なまでに露呈されているといえまいか。そして、さらに現代人の救いがたい傲慢さは、この不幸に輪をかけているように、私には思えるのである。
 私は生まれて四十年、わが身が疎外されているとか、人の身が不在であるとか、そんな呑気なことを思ったことは一度もない。いつ、いかなるときも、われら人間の実在を疑ったこともない。ただ、その実在の、さまざまな様相について、いささか目を凝らしつづけ、現在の人々の一人一人の宿命の転換から、人類の宿命の転換を可能にすることによって、切迫しつつある地球上の悲惨を、なんとしても叩きつぶそうと祈りつつ、懸命に努力しているつもりである。
 大きなことを言うと思うかもしれないが、全宇宙からみれば、ほんの一隅の問題にすぎぬ。今日、人間の知恵は人工衛星を製作し、先日も月を一回りして無事に帰ってきたばかりだ。たいしたものである。しかし、まだ人間の知恵は、ベトナムあたりの一人の老婦人の、身も世もない悲しみを救うことさえできないでいる。月の裏側のアバタ面は、明確に分かるようになっても老婦人の顔にきざまれた不幸の皺の一つ一つがなにを語っているかに深く思いをいたすことがない。戦争という人災が、まるで天災の仕業でもあるかのように思いなして、難民救済などとごまかしている。厄介なのは戦争ではない。はるかに厄介なのは、人間という思いあがってしまった現代の生物なのである。
 やがては、人間は月を見物して帰ってくるであろう。しかし、大学問題も、チェコ事件も、ベトナムの和平交渉も、人間の知恵の足りなさから、不幸のうえに不幸を重ねていくようにさえ思われる。このような人間の知恵の隔絶は、いったいどうしたことだというのか。宇宙天体の神秘は解明できても、一人の人間の神秘を解明できないとは、不可思議なことではないだろうか。
 現代人は、人間という自分自身のことに関して、まことに不真面目になってしまった。現代の人間社会に瀰漫している不幸という現象を目にしても、せいぜい政治という小手先の技術で一切が解決できるかのように錯覚している。この傲慢さは、いずれ復讐をうけずにはいないだろう。
 なるほど近代科学の探究は、人間に関して生理学や心理学や生化学や社会学の発達を促してきた。またそれによって、人間生活の向上と幸福にかなりの成果をもたらしたことも事実であろう。だが、その半面、文明の高い人間ほど、その精神は病んで、不幸に苦しんでいるという不測の現象を知って、科学は呆然とさえしているようである。
 人間、この不可思議なるもの、つまり「生命」について、真面目な探究と、懸命な解明を志すことがないならば、現代の人々の不幸は、破滅へと進むより仕方がないだろう。人間の神秘な不可思議さは、過去に数々の宗教を生んだ。しかし、この探究と解明は、あまりの不可思議さに、常軌を逸して、そのほとんどが迷路にはいってしまい、人間を惑わすものとなってしまった。しかし、生命の法則についての究極の真理が一つあるならば、同じく、生命の解決法の宗教も一つあるはずである。人間の不可思議さの探究に先だって、現代の人々は宗教の深浅高低の識別から、その第一歩を踏み出す必要が急務となっているのである。
 ともあれ、現代人は、傲慢さを捨て「生命」「人間」に関する探究に、謙虚でなければなるまい。

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