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日蓮大聖人・池田大作

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茶室の意味・新聞記者時代の勉強 井上 …  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  四、五日前、京都で茶道具の展観があり、それを見に行って参りました。利休が所持したもの、利休好みと言われるもの、そうしたものをある程度纏めて見ることができて、私は利休という人物を考える上にたいへん参考になりました。
 利休がいかなる人物、いかなる茶人であったか、文献的史料はいろいろありますが、それからは甚だ漠然たるイメージしか浮かんで来ません。こんど、利休の所持した黒茶碗、赤茶碗をそれぞれ数個ずつ見まして、初めて具体的に利休という茶人の心に触れたような思いを持ちました。どの茶碗も、それからまたどの茶杓ちゃしゃくも、なつめも、花入れも、何の奇をてらったところもない普通の、平凡なもので、茶道具の標準の型が利休によって価値づけられているのを知りました。利休はごく普通の、素直なものを美しいとしていたのであります。少しもてらつたところも、はからいもなく、ただひたすら素直、平凡でありました。利休に関する道具は、これまでに機会あるごとに見て参りましたが、やはりある点数固めて見ないと判らないと思いました。利休を神格化した説話はたくさんありますが、本来の利休はそうしたものとは無関係であったのではないかと思いました。
3  一体、利休について何を書きたいのか、ひとからよく訊かれますが、利休をまん中に据えたあの戦国時代のわび茶というものがどのようなものであったか、その底を流れる水脈のようなものを考えてみたいからであります。あの明日の生命も判らぬ乱世を生きる武将たちは、ただでは茶というものに惹かれなかったと思います。どうしても茶室という特別な空間の中に、自らを坐らせる必要があったのでありましょう。
 茶室という空間は、それを取り巻く現実社会に対立する小宇宙であり、小天地であります。その小さい空間では、あらゆる価値基準が異っています。権力者は権力をはぎとられ、別個の価値体系の中に自分を置かなければなりません。世俗的なものも、いっさいはぎとられます。畳の上に置かれた一個の黒い茶碗が、この空間における王者であります。人々はその前に坐り、現実社会では考えられぬ対話を行わなければなりません。この特殊な空間の中で、利休は茶を点てて、武将たちを接待しながら、一体何を考えていたのでありましょう。
 利体は七十歳か、七十一歳で歿したとされております。当然、年齢による死は、晩年の利休の眼にちらちらしていた筈であります。そこへ自然の死でなく、人から与えられた死が眼の前に置かれたということになります。利休は助命嘆願のすすめをしりぞけて、人から与えられた死を選びます。なぜ利体はそうした態度をとったか、そしてその時の心境はいかなるものであったか。
 このようなことを、私は「千利休」という小説で書きたいのでありますが、果して読者が納得するように書けますかどうか、結局のところは戦国のわび茶というものの中を流れている宗教性を探るということになりますが、今のところは深い霧の中に居るような思いであります。書いてゆくうちに私なりの判り方をしてくるかと思います。
4  まだ書き上げもしない小説について再三言及いたしましたことをお詫びいたします。利休の仕事に入っておりますので、ついこのようなことになってしまいます。茶室という特別な空間というような言い方をいたしましたが、茶とは全く異ったことで、最近、一体この空間は何だろうと考えさせられたことがあります。
 一つは病院であります。以前は病院というところは、病院という特殊な空間を持っており、医師も、看護婦も独特な静かな歩き方で歩き、患者もまた、一見それと判る歩き方をしておりましたが、いまは大きく変ってしまったと思います。都心部の大きい病院に、知人の見舞に参りましたが、たいへんな人が詰めかけており、診療の順番を待っている人たちの前にはテレビがあって、野球の放送をしておりました。そして絶えず拡声器からは患者の名を呼んだり、医師の名を呼んだりする声が流れております。また見舞客と思われる人たちも子供連れが多く、たいへん賑やかな病院の雰囲気であります。
 病院という特殊な空間に、これを取りまく現実社会の波が押し寄せ、押し入ってしまった感じで、同じ建物のどこかで死病と闘っている患者がいるということが不思議なような思いを持たせられました。いかに大きい総合病院であるにしても、病院は病を養う館としての特殊な雰囲気を確保した方がいいのではないかと思いました。病院を訪ねる人も、病院を訪ねる特殊な心構えが必要でありましょうし、病院の方も病院らしさを保つ方策を講ずべきではないかと思いました。
5  もう一つは、ホテルであります。ヨーロッパのホテルは、大抵のところが止宿している人たちの館といったものを持っておりますが、日本のホテルの一階などは、さながら街路であり、待合場所であり、そして酒場であったり、喫茶店であったり、店舗街であったりします。これはこれで、なんの咎めだてするには当りませんが、ホテルというものの持つ特殊な空間は、すっかり別のものに置き替えられております。
 日本にはもうその建物が本来持つべき特殊な空間というものはなくなりつつあるように見受けられます。公園ですら、老人が一人で歩ける静かな公園を探すことは難しいようであります。家庭の居間という空間も、テレビをつけ放しにしている限りでは、すこぶる奇妙なものになってしまいます。何ものかを整理して、もの本来の単純な形に、ある部分は一戻したい気持がありますが、この烈しい社会の動きの中では望み得ないことでしょうか。
6  二月のお便りで、自分が生きて行く上に大きいものを貰った、今や故人になっている植田寿蔵博士と河井寛次郎氏のことについて記しましたが、そのあとやはり私にとってたいへん有難い先輩であった井上吉次郎氏の訃に接しました。井上吉次郎氏が毎日新聞大阪本社の学芸部長時代に、私は毎日新聞に入り、その下で新聞記者としての薫陶を受けました。
 氏の命令で美術欄を受け持たせられ、古い美術も、新しい美術も勉強させられました。また宗教欄も担当させられ、経典の解説などもさせられました。
 氏自身が新聞記者というより学究で、のちに社会学関係の著書も持ち、学位もとり、大学で教鞭をとるようになられましたが、当時、若い私としては、その人の下で働くことはたいへん辛いことでした。
 一時期は、日曜毎に奈良行きのお供を仰せつけられ、古いお寺を廻りました。その時は甚だ迷惑なことに思っていましたが、いまになってみると、有難いと言うほかありません。氏は仏像でも、絵画でも、第一級のものにしか関心を持っておりませんでした。私は何を書くにしても、いつも原稿を氏に読まれるということで、いい加減なことができませんでした。少しでも間違うと、
 ――困るね。
 ただひと言でした。私は氏のお蔭で、仏教の教典というものが、エッセーであったり、ドラマであったり、論文であったりすることを知りました。現代美術の批評を署名入りで執筆したのも、氏の命令でした。批評に責任を持つための署名で、若い新聞記者としてはいつも肩の重い荷物にひしがれている思いでした。私は一時期、新聞記者のままで京都大学の大学院に籍を置いて、美術の勉強をしたことがあります。結局新聞社の仕事が忙しくて、書物を借り出すぐらいのことしかできませんでしたが、それでもそのような気持になったのは、氏によって火をつけられたからでした。
 私は小説を書くようになってから、一、二回しか、氏にお目にかかっていません。今考えてみると、四十代から五十代にかけて忙しく仕事をしている時は、氏に会うのが怖かったのかも知れません。
 ――困るね。
 氏が私の小説を読んで、曾ての新聞記者時代と同じ言葉を日から出されるかも知れなかったからです。
 四、五年前、一度ゆっくりお目にかかりました。八十歳に近い高齢の氏は、私の作品について好意的な感想しか口にされませんでしたが、やはり聞いていて、うっかりいい気になってはいけないという自制が働きました。やはり怖かったのです。
 氏の訃報に接した時も、″今宵こそ思い知らるれ浅からぬ君にちぎりのある身なりけり″という西行の、鳥羽院が亡くなられた時の歌を思い出しました。確かに私にとっては、特別な関係を持った有難い一人の先輩が、この地上から姿を消したわけであります。しかも、ろくにお礼も言わないうちに、亡くなられてしまったのであります。悔ばかり多い私の人生ですが、また一つ悔が重った思いであります。
7  一年間、お手紙を往復させて頂いたことを、心から感謝いたします。いろいろ生きる上での大切な問題を提起して頂きましたが、それを取り上げて大きく展開することもできず、ご期待に添い得なかったことをお詫びいたします。しかし、毎月一度、本当に思っていることだけを、お便りの形で綴る機会を与えて下さって、有難く思っております。
 ここで改まって申し上げるには及びませんが、池田さんのお仕事と、池田さんの肩にかかっている責任は非常に大きいものであります。これも私などが言う必要ありませんが、一層ご自覚の上、利休が茶器の標準の型を価値づけたように、人間がこの地球上に生きる標準の型を、平凡で、目立たず、素朴で、しかも美しく、力強い人類生存の基盤を、ご念願頂くように、一心から期待してやみません。
8  この一年お目にかかっておりませんので、機を得て、ご拝眉の上委曲いきょくつくさせて頂きたく存じます。
 一九七六年四月十四日

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