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卒業式のこと・女性の生き方 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

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2  三月中旬、私が創立いたしました創価女子学園の卒業式があり、それに出席しました。実は開校して三年、今年はじめて、第一回の卒業生を送ることになりました。学園は大阪の交野にあります。土地の人たちは、この交野の地が万葉集にも詠まれ、歴史の舞台であったことを誇らしげに口にします。事実、霞たなびく生駒連山を望む風光は、往時を偲ばせてくれます。父母の方々がつくって下さった「螢乃池」や瀟洒しょうしゃ四阿あずまやをはじめキャンパス全体に、生徒たちへの豊かな愛情がさりげなく行きわたっているのです。機会があれば一度、お立ち寄り頂きたいと思っております。
 昨今は、卒業式も入学式もそれほど人生に意味のあることではなくなったという人も多い、と聞きます。そう言うには、それなりの理由もまたあることでしょうが、人生の出発や決意をする節を大切にしようという気持だけは、季節の巡り合わせを新鮮な心で迎えるのと同じように、忘れてはならないことではないかと思っています。
 卒業式の日は、前夜からの雨も上がって、素晴らしい晴天でありました。校舎を囲む樹々も、よく心が配られているためか、生きる喜びを身の丈いっぱいにふるわせているかのようで、陽春の息吹が満ち、思わず「いいなあ!」と口にもらしたものです。卒業式は創立者の私にとりましても感慨深いものでありました。
3  井上さんは、先々月のお便りのなかで、沼津中学校の同窓会に御出席になったことについて書かれていらっしゃいましたが、私は卒業式の日、母校というものの存在について、改めて考えておりました。
 母校はどこまでいっても懐かしいものでなければならないと思います。
 それは生まれ故郷に対して「精神の故郷」と言ってもいいでしょう。しかしそれもただ、懐かしの我が母校というだけなら、精神の創造的展開というより、何か後ろ向きの懐旧の情につながる対象でしかないでしょう。
 私はつい今しがたまで、第六回の卒業式を迎えた東京の創価高校の卒業生に対するメッセージを書いておりました。
 そのなかにも触れたことですが、母校に対しては「魂魄この土」にとどめて、という関係を自覚するなら、去って去らず、自己と対象との距離は全くなくて、卒業生諸君と母校――つまり、自己と対象とが、いつでも一体に同化している状態をつくることができると書き送りました。加えて、何事にせよ、ひとつひとつのことに、こうした信念で立ちむかう人生であるなら、いかに若輩であろうとも、大人にも勝る立派な見識をそなえた人物になりうることを門出のはなむけとして贈りました。
4  女子学園の卒業式の日、私がことに嬉しく思ったのは、卒業生を送り出す在校生の、万感こもる謝意の心でした。一年生、二年生の教室の窓という窓には「お姉さん、ご卒業おめでとう」の貼り紙がありました。
 体育館での式を終えて、卒業証書を手に退場する通路は、在校生の手によって、ピカピカに磨き上げられておりました。「ここはお姉さんたちの通る廊下だ。きれいにしてお姉さんたちを送ろう」と、だれいうとなく前日までに磨き上げたのだそうです。
 卒業生一人一人の胸には、ペーパー・フラワーのビンクのバラがつけられていましたが、これもすべて、在校生のつくったものでした。学園の入口の歓迎のアーチや、式場の飾り付けもみな在校生の手づくりです。先輩と後輩との絆が、このように自然のうちにできあがったことが、尊く思われます。
 この屈託のない明るさは、関係者の方々から慈しみ、育まれてきた生徒たちが、体いっぱいにして、感謝の思いを示しているありのままの姿なのでしょう。
 私は式のあいさつで、人生においては自らの人間性の確立、優れた人格の形成ということが何よりも大事だということ、それを観念ではなく、互いの触れ合い、体験を通して身をもって会得すること、つまり学園で自然のうちに身につけた友との生涯の信義を、挫折することなく貫き通してもらいたい旨を述べました。
5  卒業する彼女らが三年前入学して来た時、それはちょうど、桜の花咲く学園開学の時でもありました。私は「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」という信条を培うよう望みました。この信条のうえに、人間と人間の打ち合いと申しましょうか、相互の錬磨を、私は、心ひそかに学園に期待していました。幸い教職員をはじめ関係者の方々の非常な努力と熱意で、そうした方向になりつつあることを見て、心から満足した次第です。女性の陥りやすい欠点として、結婚し子供をもつと視野が狭くなり、自分のことしか考えられなくなる、とよく指摘されます。他人の不幸のうえに築く幸せは砂上の楼閣であり、やがては自己の精神も狭小化し、蝕まれていくでしょう。
 式の当日、学園の各棟を結ぶ長い渡り廊下があるのですが、その廊下を存分に使って、卒業生が歩んできた三年間の記録等を展示していました。開校して何もないところから、いわばゼロから積みあげてきた三年間を在校生に残していこうとの心遣いからでした。伝統というものは、こうして残されていくのでありましょう。
6  懇意にしていただいている写真家の三木淳さんが、学園の撮影に訪れられたことがあります。そのときの印象を「この娘たちに幸あれ」として、次のようなことを書いておられました。
 ――学園に午前八時半に到着したところ、校門の傍らに、中年の紳士が立っていた。校長であった。校門で登校する生徒と朝の挨拶を交わすのである。その挨拶の瞬間を撮りたかったが、いつも校長の方が生徒より早く頭を下げるので、同時に撮ることは出来なかった――と。
 校長先生とは牧野光男氏ですが、三年間、登校日には欠かさず校門に立ちつづけ、生徒を迎えたそうです。私はその労作業の奥にある″心″を大切にしたいと思うのです。
 いま教育の現場では、教育のレベルをどの線にもっていくかが、どこの学校でも大きな課題になっています。一クラスに四、五十人の生徒がおれば、成績のいい子と悪い子がいるのは当然です。そこでレベルを上げすぎますと、どうしても一定以下の生徒を切り捨ててしまう結果になるのだそうです。
 私は卒業式で、真に優れた人とは自分の苦手な部分に負けることなく、得意の部分を伸ばせる人だ、とも話しました。人には得手、不得手があります。不得手の分野で自信を失い、人生に負けを感じるような人になってもらいたくありませんでした。
 卒業式のことを長々と記しましたが、私は教育を最終の事業と決めております。また教育上の革命は、経済や政治の変革よりも更に奥深いところで人間を変えていくでありましょう。もちろん教師自身の人間としての向上心、そこからにじみ出る人格、人間性が教育の第一であるように、教育革命には人間の変革が前提とならなければならないとも信じます。
 ともかく、この日は私にとって、自分の娘たちを送り出すような気持の一日でした。そして爽やかな、心なごむ一日でした。学園を去る際、生徒たちが校門のところまで駆け寄って送ってくれましたが、私は「またいつでも母校を訪ねるんだよ」と心の中で、繰り返し繰り返し述べていたものでした。
7  卒業式と直接関係はないかもしれませんが、男性と比べ女性の人生の少なからぬ部分が、自己以外の要素によって決定的に左右されている一面があることは、事実でありましょう。いわゆる三従の訓えなどは、とうに過去のものになってはいますが、しかし女性の人生が結婚と出産、そして子供によって大きな変化を余儀なくされるという事情は、今でもさほど変わってはいないのではないでしょうか。
 結婚して夫とすぐ死別するかもしれないし、折合いが悪く別れるようなことになるかもしれません。希望のなかで生まれた子供が、不幸にして五体満足でない場合もあるでしょう。私は、そんな女性としての前途を思うと、若い女性には、とにかく福運豊かな人に、そしていかなる不幸にも打ち勝てる人に、と祈らざるを得ません。信仰というのは、何が待ち受けているかもしれない人生にあって、何があろうと、何が起ころうと絶対に自分は大丈夫だ――と言えるだけの揺るぎない自己を確立する、勇気ある″自立″の行為だと思っております。
 先月のお便りで、九州に行った折のことは記させていただきましたが、九州のある母一人娘一人の歩みに心打たれ、思うことが種々ありました。
 昭和十九年七月、その婦人はご主人を戦争で失いました。戦地はビルマのミートキーナだそうです。実は私の実兄もビルマで戦死しています。公報によると二十年一月の死亡でありました。私はその婦人から今日までの歩みを聞きましたが、次のような話が心に残っています。
 昭和二十年、戦争もようやく終局へと向かい、北九州の工業地帯にも、ひんぱんに空襲が繰り返されるようになった頃のことだそうです。アメリカ兵の捕虜がキリスト教会内に収容されていました。婦人は郵便局の集配員として働いていましたが、梅雨が明ける頃、一つの場面に直面しました。防空壕を掘る仕事に従事させられていたアメリカ兵が、咽の渇きに堪えかね、井戸に水を求めてきたそうです。やっと汲み上げて口にしようとした時、通りがかりの主婦が「お前たちに飲ます水は一滴もないよ!」と、いきなり釣瓶つるべをもぎ取り、その水をいてしまつた。アメリカ兵は怒りとも悲しみともつかぬ目で、主婦をじっと見つめていたそうです。当時の状況からして、これは当然のことだったかもしれません。
8  しかし、その光景を目撃していたこの婦人は、その場にクギ付けになったそうです。
 「ああ、夫もこうして暑い七月に、一滴の水を求めて異国の地で死んでいったのではないか」こう思うと、それまでの敵愾心も消えて、急いで水を汲み上げて、立ち去ろうとするアメリカ兵を追いかけ、道端の草むらに釣瓶をそっと置いた。兵は感謝の心を無言のうちに示しながら、暖をならして飲み下したそうです。やがて捕虜の仲間が一人また一人と来ては水を飲んでいった。
 いつしか水汲みは郵便配達の折の、彼女の日課となっていった。捕虜たちは彼女をみると無言のうちに頭を垂れたそうです。それを知った周囲の日本人の中には、憎悪の目を彼女に向ける人がいたそうです。
 終戦が来て、立場は一変しました。ある日、いつものように集配で同じ道を行く彼女を、四、五人のアメリカ兵が待っていて、口々に「アリガトウ、アリガトウ」と言い、タオルやチョコレートなどの日用品、菓子などを差し出したそうです。家に一人で待つ幼い娘の顔が浮かび、チョコレートなどは咽から手が出るほど欲しかった。しかし、もらってはならないと、道を急いだというのです。
 「どこの国の兵士にしても故国には家族があり、温かいだんらんの家庭がある。だれが喜んで戦争に加担するものか。悪いのは戦争であり、国家の名のもとに戦争に民衆を巻き込む指導者である」
 彼女は心からそう思ったと話していました。
9  市井の一庶民の体験ですが、私には教えられるものがありました。その後、その婦人は娘を立派に育てあげるのですが、その芯の強さ、心の気高さが、彼女を支え、娘を支えたと感じました。一人の女性の来し方ではありますが、女性はやはり、そうした意味での″自立″の強さを持つべきであろうと、しみじみ思います。また女性が真に平和なり幸福を実感した時に、その時代は初めて良き時代と言えると思ったりしたものです。
 例の通り、近況の一端を必ずしも脈絡なく、思うままに記させて頂きました。御清閑の日々を祈り上げて、擱筆かくひつさせて戴きます。
 一九七六年三月十七日

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