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日蓮大聖人・池田大作

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早春の賦・祈りについて 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
7  同じ福岡でのことになりますが、青年たちが集まっている小さな会合に出席しました。それは、御書学習会といいまして、月に一回「教学の日」をもうけ、その日、三々五々集まって、互いに仏法哲学の研鑽を行う会合です。
 訪れたのは、県下の二会場でしたが、いずれも五、六十人が参加していました。この日は全国各地でこのような会合をもっていましたが、この会場にも、全国のどこの会場にも見られるような光景がありました。
 学習の意欲に燃え、額に汗をにじませて駆けつけてくる青年、テキストを手にしながらも様々な職業の雰囲気、職場の空気をいまだ身につけているようで、二十年以上も前の自分の姿をそこに見る思いがしました。
 メンバーの、割に広いお宅を会場に提供してもらって、ともに仏法を学習し、研鑽しあうこうした会合は、学会草創の頃からの伝統を秘めた自主講座なのです。私は唯ひとつ、次のことを話しました。
 哲学を身につけることは、心に太陽をともすことであり、これからは哲学をもち、人生の暗路を切り拓きゆく人の時代である――と。
 哲学を求めて飛びたったミネルバのふくろうがいまだ帰りきたらず、人生の哲学が喪失した時代が余りに長く続いてしまいました。
 人生において哲学することが忘れられ、知識とその量だけが独走していることについて、恩師である戸田城聖先生は、「知識が即智慧であるという考え方は迷乱といえる。知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が、智慧ではない」
 とよく語っておりました。
 日進月歩の勢いで増え続ける知識の総体に比べて、それを生かし、使うための人間の智慧が、どれほど進歩をとげているか、それは誰もが疑問に思っていることだと思います。
 では知識をしていかに智慧に転換させることができるか、その未知なる一点をめがけて、先人の様々なる苦闘があったことでしょう。仏法を研鑽する御書研究会などに出席して思うことは、庶民は庶民なりに、真剣にかつ自らの体験にあてはめながら、深く思索を重ねているということです。
 その研鑽が、いかにささやかなものであろうと、限りなく尊く、確かな未来性を感じさせるのでした。
 仄聞そくぶんしますところ、近く欧州へ旅立たれるとのこと、道中つつがなきことを心から祈念しております。来月、桜のつぼみがふくらむ頃、今度は私の方からお便りを差しあげます。
 一九七六年二月十九日

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