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日蓮大聖人・池田大作

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芸術家・学者 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
3  新聞記者時代に京都に来ると、何か用事を考えては、五条坂の陶工の河井寛次郎氏のお宅を訪ねました。若い無名の新聞記者を、氏はいつも対等に遇して下さいました。
 ――すばらしいものを見付けましたよ。どうです、これは。
 そんなことを言いながら、沖縄の陶器だの、どこのものとも判らぬ器などを持って来て、私の前に置きました。
 ――ちょっと、これだけ豊かなものはないでしょう。
 そう言われると、私の眼にも、それが豊かなものに見えて来るから不思議でした。河井氏は、それからそれがいかに豊かであるかを情熱を以て説明し、それを見付けた時の感動やら、それをいかにして手に入れたかというようなことまで、一種独特の聞く者の心を吸い上げるような熱っぽい口調で語ります。時には初めから終りまで、自分が発見した美しいものについて語り、そこから話題を変えない時もありました。
 私は氏から、いかなるものでも、自分の眼で見なければならぬということを教わりました。言うまでもなく、氏は柳宗悦、浜田庄司氏等と共に、いわゆる民芸運動なるものをおこし、そのまん中に坐っていた人でありますが、私はそうした運動とは別に美術鑑賞の個人教授を受けていたようなものであります。私は河井寛次郎氏から、芸術家というものがいかなるものかを教わり、美しいというものがいかなるものであるかを教わりました。
4  私は小説を書くようになってからも、何回か氏のお宅を訪ねていますが、いつでしたか、工房の一隅にあった氏の作品を譲って頂くことを申し出ました。すると氏は、それを手放すことに躊躇を覚えているように見受けられましたが、暫くして、再びその前に立った時、
 ――お前は井上さんのところへ行くか。
 そのようなことを、恰も生けるものに言うかのような言い方で言われました。氏という作家と、氏が造られた作品というものの関係が、どのようなものであるかを、その時私は知りました。氏の作品が私の手に入ったことは嬉しいことでしたが、それより氏と作品との関係がどのようなものであるかを知ったことの方が一層感動的でありました。
 氏は四十一年に七十六歳で亡くなられましたが、五条坂のお宅は河井寛次郎記念館になり、毎日のように多勢の入館者を集めていると聞きますが、当然なことであろうと思います。氏の作品も並んでおれば、氏が美しいと烙印を捺したものも、そこにはたくさん収められています。
 氏には「自警」と題した言葉があります。
5   天地ノ大法ニ随ッテ生カサレマショウ
  法ヲ畏レ法ヲ尊ビマショウ
  親和卜敬愛トデ暮シマショウ
  自他合一ヲ自覚イタシマショウ
  自分ハ誰ヨリモ未熟デアル事ヲ知リマショウ
  貧ヲ尊ビ素ニ帰リマショウ
  誠実一途ヲ念ジマショウ
  他ヲセメル前二自分ヲセメマショウ
  刻々新シイ自分ニ当面イタシマショウ
  限リナイ世恩ニ答エマショウ
  素晴ラシイ自分ヲ見付ケマショウ
 亡くなる前年の言葉であります。氏は確かにこのような″自警″を己れに課して、工房に生きた人であります。
6  私は京都大学で美学を専攻しましたが、専攻したとは名ばかりで、あまり講義には出席しませんでした。主任教授は植田寿蔵博士で、当然なことながら余りお覚えめでたい方ではありませんでした。大学を卒業して新聞記者になってから、私は仕事の関係で屡々、当時小松原にあった先生のお宅に出入りするようになりました。ですから本当の意味で、先生の人となりに接したのは、学生時代ではなくて、社会人になってからであると言うべきでありましょう。植田先生に打たれた一番大きいものは、学者としての氏が持っておられた身辺のきよらかさであります。いつ訪ねても、先生は端坐して、私にかわれ、いかなる話題でも、こちらの言うことに静かに耳を傾けられ、一語一語、間違いないようにご自分の言葉を口から出されました。人と対応するということは、おそらくこのようにすることであろうかと思いました。
 その後、奥さまに先き立たれ、先生は吹田市の御令嬢夫妻のお家に移られましたが、母屋とは離れた小さい部屋をご自分の書斎にされ、そこで八十何歳かでお亡くなりになるまで美学、美術史に関する論文執筆に没頭されました。私は作家として立ってからも、時折、先生の吹田の書斎を訪ねました。いつも机に対かっておられる先生の姿を見て、ここに一人の、世俗とは無関係な学者が居るという強い感動を受けたものであります。
7  先生がお亡くなりになる前年、先生から最後のお手紙と、論文の抜刷を頂戴しました。お手紙は、私の小説の読後感を綴って、私の仕事を激励して下さったものでしたが、同封の抜刷については一語も触れておりませんでした。その抜刷は、レオナルド・ダ・ヴインチの「受胎告知」に関して書いた短いエッセーで、その中で先生はその作品の欠点を指摘され、それが偽作ではないかという見解を発表されておりました。
 それを読んで、私ははっとしました。と申しますのは、私はレオナルドの「受胎告知」を讃える詩を発表していたからであります。植田先生は私の詩を読んで、自分はあなたとは大分見方が違う、まあ、参考のために読んでごらんなさい、そんなお考えで、その抜刷エッセーを送って下さったのに違いありません。そうとしか考えられませんでした。
 私が先生の抜刷を読んで、はっとしたのは、自分が自分の勘だけでそのレオナルドの作品を賛美していたからであります。自分の芸術作品に対するいい加減な態度を、先生から指摘された思いでした。
 このことを高階秀爾氏に話しましたら、高階氏はレオナルドの「受胎告知」について調べて下さって、確かに曾て偽作と見られていた時代もあったが、現在は一般にはレオナルドの作品とされ、しかも傑作と見られている。しかし、なおそれを依然として偽作と見ている人たちも居る、大体こういうことでありました。
 従って、私は自分の「受胎告知」賛を訂正する必要はないわけですが、真作か、偽作か、それを調べる手続きも踏まないで、一人の小説家の独断的見解をなんの躊躇もなく発表したことは、やはり私の迂闊さであるとしなければなりません。今でもこのことを思うと、植田先生の指摘が心に痛く感じられて来ます。しかも、先生は、それについて直接一言も触れず、優しくたしなめて下さったのであります。
 これが私への、植田先生の最後の訓戒ということになります。先生というものは有難いものだ、こういう感慨を深くせざるを得ません。
8  京都から帰りまして、庭の白梅を見ながら、このお便りを認めました。また曇天が拡がり、寒さが舞い戻りつつあるようであります。御繁忙の毎日と拝察いたします。御近況伺うことができたら、たいへん仕合せであります。
 一九七六年二月十七日

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