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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄のこと・ダ・ヴインチのこと 井上 …  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

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2  お手紙で、今日の池田さんの基礎をお作りになった二十代の、当然苦しくも、暗くも、それだけにくろぐろとした情熱が渦巻いていたに違いない時期を、大阪と関係深くお過しになったと承り、たいへん興味深く、懐かしく思いました。
 三十一年一月の日記の一部をご披露頂きましたが、短い記述の中に、池田さんの青春の欠片が詰め込まれてあって、青春だけの持つひたむきなものが、眩しく、美しく感じられました。
 私も亦、三十代から四十代にかけての十二、三年を、大阪で新聞記者として過しました。大部分が戦時下の暗い時代であります。
 戦後東京に移り、四十代半ばから小説を書き出しました。従って、作家としては、私も自分の基礎となるものはみな大阪時代に作っております。大阪ではいろいろなことを体験しておりますが、何と言っても、一番大きい体験は終戦前後を大阪で過したことであります。大阪の街が焼けるのも見ておりますし、敗戦の日も大阪で迎えております。終戦の日の社会面のトップ記事も書き、それを書いたあと新聞社の建物を出て、見渡す限りの焼野原となった焼土地帯を、放心の思いで歩いたことも、ついこの間のような気が致します。が、それから早くも三十年が経過しております。
 その三十年の間に数えるほどしか大阪に行っておりません。京都や奈良には年に何回か出掛けますが、特別の用事でもない限り、大阪には足が遠のいてしまいます。
 若い時代を過した街でありますから、大阪の街が懐かしからぬ筈はありませんし、大阪だけの持つ街の雰囲気も、大阪弁も、大阪人の人情も、嫌いであろう筈はありません。
3  大阪の街にごぶさたしていることを、仕事に結びつけて説明することは、多少気恥かしさを覚えますが、私の瞼に強烈に焼きついている終戦前後の大阪の街のイメージを、なるべくならそのまま持ちこたえておきたいといった気持は、確かに私の心の一方にあります。と申しますのは、昭和十七、八年頃から、終戦後の二十三年までの五、六年間のことを、新聞記者としての自分の体験をもとにして、小説の形で綴りたいといった気持は、作家として立った当初から持っているものであります。さいわい当時のことを、かなり詳しく日記の形で綴っておりますので、それをもとにすれば、日本の最も暗かった一時期を、私なりに小説として取り扱えるかと思います。
 私としましては、一番大切にしている材料でもあり、終戦を壮年期に迎えた作家として、どうしても書かなければならぬ材料でもあり、そしてたいへん書きにくい材料でもあります。自分のすべてを投げ込まない限り、この特殊な時代は書けませんので、そういう意味では書きにくい材料でもあり、それだけに発表する時期というものへの考慮も要る材料でもあります。
 いずれにしましても、こうした仕事を終えるまで、なるべく私の瞼に焼きついている大阪を、あの戦前の大阪を、焼野原の大阪を、闇市の拡っていた大阪を、なるべくはそのままにしておきたい気持があります。
4  お手紙でレオナルド・ダ・ヴインチが晩年を過したクルーのシャトウをお訪ねになった時のことにお触れになっていましたが、そこは私もかねがね訪ねてみたいと思っているところであります。一昨年″微笑と手と″という題で、グ・ヴィンチに関する短いエッセーを綴りましたが、その折、彼が晩年を過した館、最後の息を引きとった寝室を見ていないということが、非常に不安に思われました。
 と申しますのは、彼が亡くなった時、その館に、あるいはその寝室に遺されていた作品は″モナ・リザ″と、″洗礼者ヨハネ″と、″聖アンナ″の三点であり、その三点が晩年のグ・ヴィンチにとって、いかなる意味を持つかということを探ろうとしたのが、その小論の骨子であったからであります。″微笑と手と″という変な題をつけましたが、″微笑″はモナ・リザのあの神秘な微笑のことであり、″手″は洗礼者ヨハネのあの突き上げた不可思議な手のことであります。
 私はその小論に於て、晩年のダ・ヴィンチを次のように見ております。
5  ″モナ・リザ″の神秘な微笑と、″洗礼者ヨハネ″の不思議な手の表情の中には、ダ・ヴィンチの己が過した生涯への訣別の心が匿されている。悲しみもあれば、皮肉もあり、怒りもある。それからもう一つの″聖アンナ″の方にはこの世では考えられぬ清らかな、高い平安が描かれている。一見相反するようなこの心境もまた、ダ・ヴインチのものである。母国から去らねばならなかった冷たい現実に対して、怒りも、悲しみもあるが、しかし、それに打ちひしがれることなく、一方で、ダ・ヴィンチは″聖アンナ″の浄福を夢み、求めずにはいられなかったのである。
6  大体以上のような見方を、私はその小論に綴っておりますが、実際に彼が晩年を過した館や寝室を見ていましたら、この私のたいへん独断的な小論は、その細部に於て、あるいは多少異ったものになっていたかも知れないと思います。
 それはともかくとして、ダ・ヴィンチの言葉としてお示しになった″充実した生命は――″の三行の言葉は、私にもたいへん感動的なものであります。特に最後の″充実した生命は、静寂な死を与える″という言葉には、いろいろなことを考えさせられます。優れた芸術家の充実した生命というものは、確かに静寂な死に結びつかずにはいられぬものであろうと思います。
 来月、短い期間ですが、冬のヨーロッパの旅に出掛けますが、もしスケジュウルの都合がつくようでしたら、私もまたダ・ヴインチが貪婪どんらんに思索し、そしてその果てに静かに死んだ冬枯れた木に包まれた(怖らく)館を訪ねてみたいと思っております。忙しい旅の日程では実現できるかどうか判りませんが。
7  周恩来総理の訃報に接した時は、私もまた身近かな人を失ったような淋しさを禁じ得ませんでした。一小説家の私が周総理と親しかろう筈はありませんが、私にまでそのような思いを懐かせるところに、周総理の大きさがあったかと思います。
 私が最初にお目にかかったのは昭和三十六年の中国訪問の折で、亀井勝一郎、平野謙、有吉佐和子氏等といっしょに北京の人民大会堂で周総理と一時間ほどお話をしました。その時周総理は小説『紅楼夢』を高く評価するといった話をされ、談たまたま成吉思汗のことに及ぶと、私の方を向いて、笑いながら″成吉思汗は″と言うべきところを″蒼き狼は″という言い方をされました。『蒼き狼』というのは、成吉思汗を主人公にした私の小説の題名であります。もちろん周総理が『蒼き狼』を読んでおられよう筈はありませんが、異国の客に対してこのような気の使い方をされるということは、なかなか余人の真似られぬことではないかと思います。
8  二度目にお目にかかったのは三十八年の秋、北京と揚州で開かれる鑑真がんじん和上円寂一千二百年記念集会に出席するために、安藤更生、宮川寅雄氏らといっしょに中国を訪ねた時であります。北京で国慶節を迎え、そのお祝いの日の翌日、天安門楼上で、周総理にお目にかかりました。丁度『天平の甍』という私の小説が中国語に翻訳されて出版されたばかりの時で、この時もまた周総理は次々に握手してゆく慌しさの中で、『天平の甍』について、何かひと言、ふた言口から出し、いまは何を書いているかと、そのようなことを訊ねられました。
 三度目にお目にかかったのは一昨年の国慶節の祝宴の席に於てであります。少し遅れてご自分の席に就かれた氏を、遠くから視野の中に収めました。もちろんすでに健康を害なわれていて、祝宴への出席の危ぶまれている時でした。
 周総理とは僅かこれだけの関係でありますが、お目にかかる度に礼儀正しく、心優しい印象を受けたものであります。
 周総理の逝去を″巨星落つ″という見出しで報じた新聞がありましたが、確かに礼儀正しく、心優しい世界の大きな星が落ちた感じであります。
9  年頭の沖縄の旅は、山本健吉、遠藤周作、北杜夫、福田宏年といった親しい人たちといっしょでしたので、少ない日数でしたが、なかなか充実したものになりました。
 私の場合は、二度目の沖縄行きで、十六年前の沖縄の印象はまだ戦争の傷跡が生々しく残っている暗い島でしたが、こんどは南部にも北部にも立派な舗装道路やバイパスが走り、たいへん明るい観光の島になろうとしているかのような印象を受けました。観光の島と申しましたが、本土から離れていることが幸いして、現在はもちろん、将来も、観光客が渦巻く本土の騒がしい観光地にはならないであろうと思いました。戦争による悲劇を到るところに刻みつけている沖縄は日本の特別な島であり、同じ観光の島であるにしても、平和への祈りを底に沈めた静かな観光の島になって貫わなければなりません。
 一月の初めですのに、山地には緋寒桜が咲き、里近くには菜の花が咲きかけておりました。毎日のように海岸線に沿ってドライブしましたが、海の色はきれいでした。沖縄の海は七色に変ると言われておりますが、海洋博覧会場附近の珊瑚礁のある海などは、まことにそのような海であろうと思いました。
 滞在四日のうちに、今帰仁なきじん城跡、座喜味ざきみ城跡、安慶名あげな城跡、勝連かつれん城跡、中城なくぐすく城跡といった城址を、作家の大城立裕氏や県立沖縄史料編集所員の高良倉吉氏、海洋博沖縄館館長の中山良彦氏たちに案内して頂きました。いずれも造築年代ははっきりしていませんが、十五、六世紀頃戦火の中に亡んだと伝えられ、現在発掘調査が為されつつある城跡であります。
 どの城址にも曾て神が祀られてあった聖域と称されている場所がありました。中には七カ所も聖域を持つ城もありました。
 沖縄の古い歴史については全く無知ですから、独断的なことしか言えませんが、幾つかの城跡を経廻ってみますと、往古の沖縄は到るところに神が祀られていて、まさに祈りの島とでも言うべき特殊な島であったような思いを持ちました。城址ではありませんが、琉球第一の霊地とされている斎場御せいふあうたきにも行ってみました。神がそこから来ると信じられていた久高くだか島への遥拝所も遺っておりました。
10  沖縄の旅から帰りましてから、ずっと寒い日が続いております。しかし、今日、庭を歩いてみますと、一本ずつある紅梅も、白梅も枝々に小さい米粒大の芽を持っているのに気付きました。赤城つつじも枝という枝の先端に芽をつけております。この方は紅梅や白梅よりずっと大きくなっております。すでに植物たちはやがて来る春を迎える準備を始めているのであります。
 と申しましても、春はまだ遠く、全国的に感冒が流行しているようであります。どうぞご自愛の毎日でありますように。
 一九七六年一月二十三日

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