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大阪の心・「周恩来戦友」のこと 池田大…  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

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1  暖かな日差しの打ち続く陽春の候、いかがお過ごしでしょうか。年が改まったからと言って、格別何も変わるわけではありませんが、やはり一年の初めというものには、また新たな出発への決意といったような、爽やかな趣があるようです。
 私はこの八日から関西へ参っております。大阪には旧知の友人たちが多く、私にとっては懐かしい想い出に充ちています。まだ二十代の青年の頃、私はたびたび大阪を訪れました。ある時期には、東京にいるより、大阪の地にいる時間の方が長かったこともあります。
2  昭和三十一年頃の日記を見ますと、その一月には、正月三箇日が過ぎると、すぐ大阪に向かったことを記しています。
 「一月四日(水)朝九時発、特急『つばめ』にて大阪へ」
 「一月五日(木)夜行、十時の『月光』にて、一人わびしく帰る。車中、″本有無作″という事を思索。
 頭の悪しき事を、悔む。″以信代慧″の肉弾の如き信心以外に、われのたどりゆく方法も、道もなき事を、深く思う。ああ、凡夫」
 「六日(金)夜行で東京着……九時三十分を過ぎてしまう。途中、臨時停車多く、十一時間も席に坐す。疲れた身に、東京駅の凄まじきエネルギーは驚嘆の限り。社会と人間と」
 「一月十六日(月)在大阪。春近しの光あり。希望が湧く。大きく、宇宙の如く、伸びのびと、天空までとどけと、わが心に叫びたい。爽やかな青空」
 昔の日記の一節などを引用したりして汗顔の至りですが、ともかく大阪は、私が青春の汗を流した地であります。もちろん大阪へはその前も、それ以後も何回となく来てはおります。ただ、昭和三十一年の頃は、大阪に住んでいるような感じで、日々を送った思いが鮮やかに思い出されるのです。
 あれから、今年はちょうど二十年になります。この歳月の経過は、多くの親しい知人たちをこの世から奪ってしまいました。
 それらの人たちのなかには、長寿を全うした人もいますし、まだそれ程の老齢でもなく世を去った人もいます。しかし、いずれも悔いのない人生を戦い抜いた人々です。
3  大阪へ着いた夜、友人たちと時の過ぎるのを忘れて語り合いましたが、眼底には今は亡き人々の面影が揺曳ようえいし、あたかも親しく座を共にしているように思われてなりませんでした。
 昨年のお手紙の中でも申し上げましたが、数年前、フランスのロワール地方を訪ねたとき、レオナルド・ダ・ヴインチが晩年を過ごしたという館を見学する機会がありました。歴史を刻んだ調度品、家具、壁が印象的でありましたが、ダ・ヴィンチの亡くなった寝室には、彼の言葉が刻まれた鋼板が飾られていました。その文句が心に残っています。
4   充実した生命は 長い
  充実した日々は いい眠りを与える
  充実した生命は 静寂が死を与える
5  時間節すれば、生命長し、ともいいます。まさに、人生の価値は時間的に長く生きたかどうかという尺度のみで決まるわけではないと思います。当然のようですが、その人が社会に何を残したかで決まるのではないでしょうか。
6  井上さんは大阪で新聞記者としての生活を十一年間過ごされていたわけですが、土地に馴染めず、大阪弁には、少しも影響されることなく、意識して使わなかったわけではないが、関西弁というものは、ついぞ口から出なかった、と言っておられます。私も、代々の江戸っ子で、「ひ」と「し」の発音の区別が難しいぐらいですから、関西弁に影響されるということはありません。しかし、心が通うというか、関西という風土は私にとって、とても懐かしく親しみのあるところに感じられます。
 浪花の心というか、関西の心というか――それは、江戸、東京の心とは、やはり違います。大阪の心を語る場合、どうしても、見逃すことができないのは、大阪弁のもつ独特の雰囲気でしょう。言葉は何といっても、それを語る人の生活感情を正直に表すものだからです。
 江戸っ子が、大阪弁を聞いた場合、最初の印象は、当たりのやわらかさに驚くと同時に、そこに、あいまいさを認めてしまいがちです。よく東京の人が大阪人の言葉を聞いて「しまらない」とか「はっきりしない」とか、かなり否定的に評価する場面に出会います。たしかに、東京の人から見れば、その一面がないとはいえません。
 しかし、私が少々大阪の人々と交わったかぎりでは、この評価は表面的で、大阪の心の一部しか見ていないように思われます。私が、大阪の心が好きになったのは、大阪人の生活感情の中に表と裏の妙なる融合を認めたからです。
 表の柔らかさと裏に秘められた粘り強さ、一途さとの見事なる調和――これをとらえないと関西人や大阪の心は理解できないといって過言ではないでしょう。おそらく、この調和なり融合は、大阪の置かれた地理的、歴史的条件とは無縁ではありますまい。
 古来、商業の都として栄えた大阪は、商業を営む上から、対人関係にあって、他の地域にはない独特の工夫を要求されたといえるでしょう。相手の心や思考を明確に読むことや、相手をそらさない人間的な温かさ、それでいて、粘り強く一途に目的を遂げようとする強い実行力――これらが織り合わさって、大阪の心が形成されたように思います。
 大阪弁はまさに人情の機微にさとく、かつ相手の心をそらさない思いやりが長年の風雪に耐えて結晶された言葉といえるでしょう。
 私にとって、大阪という土地が、わが青春の苦闘を秘めた一種独特の想いを誘うことから、思わぬ長談義になってしまいました。御容赦下さい。
7  翌る九日、周恩来総理逝くとの報に接しました。ことのほか寒さが身にしむ朝まだきのことです。たった一回お会いしただけでありますが、身近な人を失ったような、深い悲しみを禁じ得ませんでした。訃報を耳にした時、辺りが一瞬、静まりかえるように思われました。その空間の広がりの中で、私はしばらく、一人じっとたたずんでいました。
 周総理とは、一昨年十二月、私の二回目の訪中の折、北京市内の病院でお会いしました。あすは北京を去るという前夜、滞在中にお世話頂いた方々への、ささやかな答礼宴を行いましたが、それを終えたあとのことでありました。確か夜の十時近くでした。私どもが着くと周総理は、わざわざ病院の玄関のところで待っておられ、にこやかに一人ひとりに手を差し出されました。
 「今回は病気も快方に向かっておりますので、どうしてもお会いしたいと思いました」と周総理は語られました。
 その半年前、私が初めて訪中した際には、かなり重い病状であるということを聞かされました。それが快方に向かっているとのことで、いくらか安堵したのでありましたが、その病気がガンだつたとは…
 今想えば、あの時は小康状態を保っていたのでしょうが、夜遅くにわざわざお会いいただいた周総理の心に、改めて胸打たれます。精悍な、しかし柔和さをたたえた眼光は、さすが秋霜の歳月をくぐり抜け、烈風のなかを歩んできた一級の指導者のものでありました。あふれ出づる精神の力が、病気の進行を一時抑え、止めていたのかも知れません。
 私ども訪中の一行と記念撮影のあと、会見は病院の一室で行われました。私と妻が同席しましたが、私はともあれ健康であられるよう祈らずにはおられませんでした。「八億の人民のため、いつまでもお元気でいてください」ということを、私は自然のうちに口にしていました。それにも丁寧に礼を述べられる周総理の誠実な人柄が、今も深く印象に残っています。
 その時の会談は周総理の病気への心配もあり、二十分ほどで終わり、辞去いたしましたが、二つのことが想い起こされます。
 一つは、これから二十一世紀までの二十五年が人類にとって極めて重要な時期となることを、鋭く指摘していたことです。それと、日本に親しみをもち、日中の友好を政治次元を超えて願っていることを実感しました。また、それこそが友好の真の在り方を示しているといえるでしょう。
 周総理は懐かしそうに「五十数年前、桜の咲くころ、日本を発ちました」と、目に追憶の情をたたえつつ、話していました。私が「ぜひまた桜の咲く頃にいらしてください」と申し上げると、その願望はあるが実現は無理でしょう、ということでした。今にして想えば、周総理は自分の生命の灯が次第に燃え尽きていくことを、自覚しておられたのかも知れません。それまでの周総理は、日本からの友人に、日本を訪ね、懐かしく思う所を訪問してみたい、と語っていたのですから。
 日中間の不幸な戦争を乗り越えて、国交回復へいたったのも、周総理という存在があったからこそでありましょう。私は改めて、桜の爛漫と咲き誇る春の日に、日本を訪問していただきたかった、と思うのです。
 その四カ月後に、私はまた北京を訪問いたしました。周総理の体の状態は、もっと悪くなっていたようです。鄧小平副総理とお会いした際には、周総理にはなるべく療養していただいて、執務の心配がないようにしている旨の話がありました。その三回目の訪中の折、私は一枚の絵を持参しました。
 親しくしている若い画家に描いてもらった満開の桜の絵です。せめて日本の春を、絵を通して見ていただこうと思い、中日友好協会の寥承志りょうしょうし会長に託したのでありました。
 また、私の創立した創価大学の構内に、一本の桜の本を植えるよう提案し、創価大学に学ぶ中国からの留学生が学生とともに植えてくれました。この桜の木は周総理を記念して「周桜」と命名させていただきました。今は寒風のなかに枝を鳴らしていますが、やがて来る春には、花をつけるでありましょう。
8  私は生来、桜が大好きです。青年の頃の焼け野原にたった一本残った桜の巨木が、見事な花びらをつけ、戦後のすさんだ人々の心をなぐさめ、勇気づけていた光景を、今も忘れません。その後、今日まで桜の植樹をかなりの規模で行いもしましたが、私にとってこの「周桜」は、春となく冬となく、いつも私の心のなかで咲いているように思われます。この桜のもとで、次代を担う日中の若い心が、日中の″友誼の春″を受け継ぎ、語り継いでいくであろうことを、私は願いもし、信じもしています。
 周総理の訃報に接したその日の夜、京都で千人ほどの会合がありました。私は出席の皆さんに呼びかけ、勤行に冥福の祈りを込めました。その後、北京からのニュースで、中国の人々が深い悲しみにひたっていることが報ぜられましたが、私は周総理の遺体が安置された病院の部屋に、夫人が認めた長さ一メートル足らず、幅三十センチほどの書があることを知り、感銘を深くしました。
 その書には大きく「周恩来戦友」とあり、その横に小さく「小超シイアチヤオ哀悼」と記されているそうです。周総理があれほど活躍された陰には、夫人の鄧穎超さんの働きも大変、大きかったことは知られています。「小超」とは周総理の夫人への愛称で、その夫人が亡き夫に贈った書が「戦友」ということが、きわだって印象的であります。
 「戦友」の字は、亡骸を見守るように掲げられていたとあります。首相が二十七歳、夫人三十三歳で結婚して以来、半世紀にわたって革命の幾山河を渡り、すべてを革命に捧げた御夫妻の歴史が、私には「戦友」の二字によくあらわされていると思うのです。風雪のたびに温め合った愛情と、烈風のなかで深め合った深い信頼が「戦友」という短い言葉のなかに、よく表現されていると思うのです。私はそこに尊いお二人の人生の軌跡をみる思いがしてなりませんでした。
 生前、お元気でおられた周総理が健康の秘訣を聞かれ、自分はその生涯を中国人民のために、革命のために捧げてきた、その心の張りが一番の健康の秘訣だと思うと語っておられたそうです。周総理の死が世界の多くの人々に深い悲しみを与えたのは、もちろん現代世界に欠かせない偉大な指導者であったことにはよるのですが、私にはなによりも、″私″を捨て、すべてを人民のためにという一つの目的に生き抜いた人間としての崇高さ、不屈の信念によるものと思われてなりません。
9  ともかく周総理は、私の胸中にも多くのものを残して逝かれました。
 一九七六年一月十四日

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