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日蓮大聖人・池田大作

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富士のこと・殯のこと 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  私は幼少時代を郷里伊豆で過し、毎日のように小さい形よい富士を見て育ちました。また中学時代は中学時代で、毎日のように、沼津から見る富士に付合っております。そんなわけで、現在でも富士という山には特別な親近感を懐いておりますが、こんどのように全身厚く雪に覆われた富士を眼間に仰いだことは、或いはこれまでになかったのではないかという気がしました。
 その日から翌日にかけて、堪能するほど真白くよろわれたボリュウムのある富士に付合いました。夕暮の富士を見、暁方の富士も見ました。そしてやはり富士は、ヒマラヤの山々とも異って、特別な大きさと美しさを持った山だという思いを深くしました。
 同窓会が開かれた翌日、池田さんが創立されたと伺っている富士美術館を訪ねました。ザゴルスク博物館から送られてきた作品の展観は明日からだということでしたが、トレチャコフ、プーシキンの二つの美術館の作品が展観されていることを聞いて、それを見せて頂きに行きました。特に便宜を計って頂いて、会場を案内して貫いました。プーシキン、ザゴルスク二つのミューゼアムは何年か前のロシア旅行の折に訪ねたことがありますが、殆どの作品が、こんど初めてその前に立った思いでした。多少記憶に遺っている作品もありましたが、やはり美術館というところは一度足を運んだだけではだめだということを痛感いたしました。同窓会のスケジュウルの関係で、美術館のために短い時間しかさけませんでしたが、なかなか贅沢な充実した時間を過させて頂きました。
 それから富士美術館訪問の折、私たちに作品を解説して下さった二人のロシア女性の中の一人は、私の『おろしや国酔夢謂』のロシア語訳を読んでおり、その訳者ラスキン氏とも親交ある人でありました。私たちが参観を終えて、美術館を辞去しようとする時、そのようなことを、突然相手の女性は私に伝えました。作品の解説は公の仕事、その他のことは私事、何となくその態度にそうしたところのあるのが感じられて、これはこれで、たいへん気持よいことでありました。
3  今月に入りましてから、長年計画していてなかなか手をつけることができなかった千利休を主人公にした小説の仕事に入りました。これから当分の間、利休、利体で、毎日を過すことになります。これまでに利休関係の研究書や史料には大体みな眼を通しているつもりですが、いざペンを執るとなると、やはり調べなければならぬことがたくさん出て参ります。
 利休の侘茶というものがどういうものか、利休の死というものがどういうものか、この二つのことを小説家としての私の考えで纏めるということになりますが、どちらもなかなか興味ある、しかし、厄介な問題であります。
 小説が書き終らぬ前に、小説の主題や構想についてお話するということもどうかと思いますので、利休の仕事に入ったということだけをお報せいたしておきましょう。このような御報告をした以上、もうあとへは退けない、そんな気持になります。これまでに何回もその気になって、結局はそこから手を引いた仕事ですので、このお手紙を借りて、自分を縛らせて頂くことにいたしましょう。
4  今年も十二月の半ばに入ろうとしております。私の年齢になりましての年の瀬の感想ということになりますと、今年は自分の周囲で何人かの人が亡くなった、そんな思いがやって参ります。先月は角川書店の社長の角川源義氏の死に遭いました。その直前に、氏が生涯を賭けての研究である『語り物文芸の発生』という大著の贈呈を受け、その礼状も認めないうちに、氏の訃報に接したわけであります。
 確か六月に差し上げたお手紙で、旅先の北京で作家野村尚吾氏の訃報に接したことを認めたと思いますが、こんどの角川源義氏もまた、私にとっては浅からぬ関係にあった人であります。
 今年の初めに、私の小説『星と祭』が角川文庫に入りましたが、その文庫の解説は角川氏に受け持って貰いました。私の方から求めたことでなく、氏の方から進んで、その解説の役を買って出た、そういう恰好の執筆でありました。
 私はいつも親しい人の訃報に接してから、ある短い期間、一、二日のこともありますし、葬儀が行われるまでの何日間かのこともありますが、ごく自然に故人と対話する時間を持ちます。相手は亡くなっておりますので、私が一方的に展開する自問自答のようなものでありますが、いつもその時感ずることは、故人と生前に話すべきであったことを、何も話していないということであります。
 変な言い方になりますが、生前は、お互いに生きている人間として対立者の関係にあって、本当のことはなかなか話せないものであります。しかし、相手が亡くなると、二人の関係は死者と生者の関係になります。こんどは、こちらがいくら語りかけても、相手はそれを黙って受け取らざるを得ない関係になります。弁解もできませんし、抗弁もできません。対話は成立いたしません。
 しかし、私の場合、親しい人の訃報に接してから何日かの短い期間、相手の死ということを信ずることはできず、相手が生きているかのように、相手に語りかけることができます。生前話すべきであったことを話しかけます。この場合も、もちろん対話は成立しませんが、しかし、私は相手に対して本当に思い、考えたことを語りかけることができます。私の言い方で申しますと、生者と生者の関係では言えないことが、そしてまた生者と死者の関係では言えないことが、この短い期間には言うことができるということになります。
 ですから、いつも親しい友に亡くなられてから、一番大切なことを相手に語っているような悲しいことになってしまいます。人間というものは、何という悲しいことをするのだろう、そういった思いにさせられます。
 角川氏の場合もそうでした。私は亡き氏に対して、おくればせながら、生前言うべきであった礼を言い、生前語るべきであったことを語りました。そして私は、自分が亡き氏に対して語った内容を、そのまま葬儀の時読んだ弔辞の内容といたしました。
5  もう少し、この問題について、甚だ独断的な考えを述べさせて頂きましょう。私は往古の貴族たちによって設定されたもがり――故人の霊が生でもなく、死でもなく、ある期間生と死の間に居るという往古の人たちの想定は、故人と遺された者との間に、本当の対話が成立できる期間を設けたということになりはしないかという気がいたします。つまり生者と生者の関係では成立しなかった対話が、そしてまた死者と生者の関係では成立させることができない対話が、殯の期間に於ては成立するということになります。万葉集の挽歌というものは単なる追悼歌ではなくて、殯という特定の期間に詠われた追悼歌であるとした国文学者の論文を読んだことがありますが、そう思って挽歌というものを読んでみますと、同じ追悼の歌にしても、挽歌独特の哀切の調子があることに気付きます。追悼の詞というより、故人に対する直接の愛情の表現のようなものが、その多くを占めているように思われます。そして、甚だ我田引水的な言い方を許して頂けば、この挽歌こそ私の対話なるものに相当するものではないか、こう思うのであります。
 実は私は『星と祭』という作品の中で、この甚だ独断的な殯というものへの解釈を、小説的に展開いたしております。角川源義氏はそうした小説の解説を書いているのでありますが、直接殯のことについては触れておりません。肯定も、否定もしておりません。氏は折口信夫博士の門に学んだ人で、この方面のことについては専門的知識を持っている人であります。おそらく私の殯というものの見方に自分の考えを述べようという気持で、自分から進んで、解説の筆を執ろうという気になられたのではないかと思います。
 しかし、それを為さなかったのは、私の言い方で言えば、生者と生者の関係であったからでありましょうか。私に対する遠慮もあり、私に対する労わりもあったからでありましょうか。
6  この前のお手紙で、今年の私の事件として、鉄斎の作品を見たことを、その随一に挙げましたが、そのほかに東京芸大やブリデストン美術館、文化財保護研究所などで、浅井忠、青木繁、黒田清輝、高橋由一など明治の洋画家の作品を、多少まとめて見たと言える見方で見ることができたことも、今年の事件としなければならぬようです。もう一つ挙げるとすると、東大寺二月堂のお水とりの行事を、初めて堂内に坐って見たことでありましょうか。春を呼ぶ祈りの行事には違いないのですが、キリスト教も、拝火教も、神道も、民間信仰も入り混じっているような不思議なものを感じました。
 今年もあと半月ほどで終ろうとしております。歳末繁忙の折、くれぐれも健康に御留意なさいますように。
 一九七五年十二月十四日

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