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日蓮大聖人・池田大作

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広島で考えたことども 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  私どもの年次総会が今月九日、広島で開催されました。その前々日から当地に参っております。当地にこれほど長く滞在したのは、はじめての経験でした。今回の総会の開催地を原爆投下の地・広島にいたしましたのは、戦後三十年という一つの大きな節を迎えて、二度とふたたび、あの惨劇を繰り返してはならないとの決意をこめてでありました。
 総会の前日、私は平和記念公園にある原爆慰霊碑にささやかな献花をいたしました。常緑の樹木がしっとりとした晩秋の陽を浴びて、美しい午後の一刻でした。碑に向かって頭を垂れ、合掌しつつ、さまざまの想いが胸中に去来するのを覚えました。
 広島に原爆が投下されてから三十年――。被爆体験の風化ということがよく言われますが、確かに、現在の広島の地には、あの三十年前の悲惨な廃墟と化した荒廃の姿を想起させるものは、ほとんど残っていないようです。また、歳月が人々の心の傷跡を癒し、和ませてくれていることも事実であります。
 しかし、どのように心の底に沈澱し、潜んでいるようにみえても、時として生々しい痛苦をともなった疼きが、その胸に秘められた記憶を甦らせることがないとは言えますまい。明るい陽差しの下、平穏で晴れやかな風景のなかに、やはり、ある翳りのようなものがあると思われてなりません。それは、いかなる時間の経過をもってしても、容易に風化しさることを許さない、深刻で重い意味をもった出来事ではないでしょうか。
2  ただ、現在の時点で、私が痛切に感ずるのは、この民族的、あるいは人類的体験を、たんなる過去の歴史事実として留めるのではなく、あくまで未来への指標として生かしていかねばならないということです。原水爆禁止を要求する切なる叫びにもかかわらず、今なお、核は縮小されるどころか、ますます増加している現実があります。その根源にあるものは何でしょうか。
 今年の八月、京都で第二十五回のパグウォッシュ・シンポジウムが行われましたが、私はその討議に、ひとかたならぬ関心を払ってきました。病床にあった湯川秀樹博士が、車椅子に坐って、核兵器がますます多くの国家に所有され、いわば水平拡散している実情を深く憂慮し、核廃絶への訴えをされていたのが、とりわけ印象的でした。
 私どもは、これまで一貫して核兵器全廃を主張しつづけて参りました。昨年、戦争絶滅・核廃絶を呼びかける一千万人の署名運動を、戦後世代の青年たちが自発的に呼びかけて行ったのも、その活動の一端でした。ただ、私どもの活動は、いわゆる政治運動を指向するものではありません。その特質は、生命運動とも言うべきものであります。
 まえにも申し上げたことがありますが、私どもの平和運動の出発点は、恩師戸田城聖先生が、かつて遺訓として宣言された「原水爆を使用するものは悪魔であり、サタンである」という思想にもとづいております。仏教でいう「魔」とは「奪命者」――命を奪うもの――と訳されていますが、つまり、生命の尊厳を破壊し、その存立を脅かす一切の所業、働きを意味しています。それは現実には、国家とか、集団とか、個人とかの形をとって現れるものですが、その究極にあるものは、生命の内奥に存在するものです。生命の淵底において作用している「魔」の働き――この見えない敵との戦いこそ、私が生命運動と謂うところのものであります。
3  井上さんが高い評価を与えられた今年度(昭和五十年上半期・第七十三回)の芥川賞受賞作『祭りの場』(林京子作)のなかに、次のような一節がありました。
 「原爆投下の翌月の九月、焼け跡に植物の芽が芽ぶいている。(中略)地中に残留していた生命は被爆直後既に生命の躍動をはじめていた」
 作者自身の被爆体験にもとづいたものであるだけに、この個所は心に深く残りました。抹殺し尽くそうとしても、なお芽ぶき、息づいてくる生命というもの。生きとし生ける生命の尊厳さを厳粛に感じさせられる思いでした。
 かつて若い日に読み、大きな衝撃を受けた原民喜の「夏の花」などの作品が想い返されました。今この広島への旅に、私は他の何冊かの本とともに携えて参りましたが、「廃墟から」という短編には、このように記されています。
 「……ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷いでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随ってはっきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何という初々しい声であろう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さえ泣いているのであろうか。何ともいいしれぬ感情が私のはらわたえぐるのであった」
 原爆慰霊碑への献花の際、花束を持ってくれた二人の青年は、いわゆる被爆二世でした。彼らは、あの廃墟のなかで生まれました。おそらく、勢のいい、そして初々しい声をあげていたにちがいありません。それはいかなる世の悲惨にもめげずに芽ぶいた新しい生命の誕生であったと同時に、その小さな生命に、原爆の痕跡は否応なく捺されざるを得なかったのでした。
4  その一人、Y君が、被爆二世という生まれながらの、しかし深く隠された宿命と現実に直面したのは、中学二年の夏の終わりということでした。身体が日毎にだるくなるのを覚え、やがて首のところに腫瘍が出来、入院し手術を受けました。彼は学校を一年休学せざるを得なくなりました。ある日、母親は思いつめたように、「お母ちゃんがあの原爆の黒い雨でリンゴを洗って食べたのがいけんのかねえ」と言い、呻くように、そしてやがて号泣したとのことです。その母も、また祖母も、それから数年後、次々とこの世を去りました。彼は呪わしい過去におびえ、死の影につきまとわれながら、一時は自暴自棄の日々を送ったこともあったようです。
 もう一人のUさんは、澄刺とした若い女性です。御両親が二次放射能を浴びた故か、彼女は中学生になった頃から、貧血をしきりに起こし、鼻血が止まらなくなったり、身体に赤い斑点が出たりするようになりました。ついには注射針を刺すだけで血管が破れるようになり、全身が紫色の痣に覆われるようになったといいます。夜、眠りに就く時、このまま眠ってしまって、果たして明日の朝は、目が覚めるだろうか、今日という日が最後になるのではなかろうか、という思いが離れることがなかった――と彼女は言いました。
 二人とも、今は苦しい絶望と恐怖の淵から立ち上がり、その苦悩の体験を平和への強靱な使命感へ昇華させて、力強く生き、そして活動しております。その遅しい、爽やかな青春の軌跡に、私は心からの感動を覚え、その未来の多幸を祈らずにはいられませんでした。
 井上さんの作品にも『城砦』という長崎の被爆女性を主人公にした長編小説がありますが、私は原爆体験というのは、直接的にしろ間接的にしろ、今もなお、人間として看過することを許さぬ問題として在るように思います。
 この二人をはじめとする人々によって、昨年『広島のこころ二十九年』という原爆体験の証言集が出版されました。そのなかで、Uさんはこのように書いています。
5  再発の問題、遺伝の影響性など私としても被爆二世の持つ宿命をのがれることはできません。正直いって恐ろしい。しかし、私は勇気を持って生きて生き抜く決意でいます。もしだれかが「あなたにとって平和運動とは何か」と聞くならば、私はこう答えます。
 「具体的に言えば、生き抜いて結婚もし、健康な子供を育てる……。これも私にとって文字どおりの平和運動です。つまり自分という人間が、この世の中で最も人間らしい人間としてせいいっぱい生き抜いたという証を、日々刻みつけていくことです」と――。
 二人の青年には、過去への怨念とか、被害者意識からくる感傷や自己憐惑は、いささかも見られません。彼らは、はっきりと自らの生の意義を掴んでいるように思えます。その清々しい眸のなかに、私は未来に生きようとする者の強靭な意志を見る思いがしました。総会での拙い講演のなかで、私は核問題について若干の具体的な提言を試みましたが、私の眼底には終始、前日会った二人の青年の姿がありました。
6  今回の総会では、明年の私どもの主題として「健康・青春」を取り上げることが決議されました。平和や幸福といっても、その具体的な基盤は、個人、家庭、社会のなかに、健康と青春の息吹がみなぎっていて、はじめてもたらされるものではないかと思います。最も地道な問題でありながら、それは人生にとって第一義の重要性を持っています。私どもの運動も、こうした日常性の上に粘り強く展開されなければならないと考えております。
 講演のなかでも話したことでありますが、健康・青春は、不断の生命の革新にあると私は思います。そして、生涯青春ということは、歴史上のあらゆる先覚者の生き方を貫いている一つの特質ではないでしょうか。
 仏教の歴史の上でも、たとえばインドのゴータマ・ブッダ(釈尊)の生涯は、己の生命の灯が消えるまで、青春の姿勢を持していたと考えられます。仏典によれば、ブッダがまさに涅槃にいたろうとする時、スパドラという遍歴の修行者が、道を求めてブッダのもとを訪れたと伝えられています。ブッダはその時、沙羅双樹のもとに病に臥していました。付き随っていたアーナンダ(阿難)は、師の病を理由に、三度、スパドラの願いを拒絶します。と、それを聞いていたブッグは、やめなさい、アーナンダよ、遍歴行者スパドラを妨げるな。入ってきなさい。そして何でも欲することを聞きなさい、と言ったというのです。
 これはもちろん、覚者としてのブッダの姿を示した話ではありますが、一人の人間としてみても、そこに私は生涯を貫いている生命の燃焼と、温かい思いやりがうかがわれるような気がします。
 私は青春とは、たんに年齢的な、または肉体的な若さというだけのものではないと思います。青年期の信念を死の間際まで貫き、燃やしつづけるところに、真実の青春の輝きがあると考えます。
7  私事になりますが、明年の正月二日は、私の四十八歳の誕生日になります。いつのまにか昭和三年辰年生まれの私が、五回目の私の年を迎えることになりました。私も私なりに生涯青春の、精神の若々しさだけは失いたくないと、しみじみ思っております。
 十二支でいう「辰」の字の古形は、龍の星座の形をしており、龍を意味するそうです。十二支のなかで、龍だけが架空の動物ですが、それだけに古来から、人間の想像のなかでロマンに満ちた説話が伝えられています。有名な「龍門」は、今の中国山西省西部の、汾水ふんすいが黄河に注ぐあたりと言われていますが、川底の断層のため、逆巻く激流となっています。この難所を泳ぎ登る魚は非常に稀で、これを登り切ると、神通力を得て龍となるというのですが、干支えとというものにまつわる話はなかなか面白いものだと思います。
 辰を一日に配しますと、ちょうど午前八時頃の時間にあたりますが、私はその時間の太陽の無限の迫力を秘めて中天に昇ろうとする姿が好きです。干支というもの自体は、俗信に類するものであり、それにとらわれているのは愚かなことですが、人生の一つの節として、生まれ年を祝う習慣というのは、それなりに意味あることに思います。ともあれ、私は昇龍のように、また太陽のように、勢いのいい、つねに生命のバネを失わない人生の生き方でありたいと思っています。
 多忙のなかで、思いの走るままに筆を執らせて戴きましたので、読み返してみて趣旨のよくいたらないところが多く、恐縮に存じます。御容赦下さいますように。
 一九七五年十一月十七日

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