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日蓮大聖人・池田大作

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人生の年輪・トルストイの顔 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  一週間ほどまえから、霧島の高原にある私どもの研修道場に滞在しております。ここへ来てからの二、三日は、濃い霧が終日、深く立ち籠めていました。濃淡のある白いベールが風に流れる風情も、確かに秋のもので、それなりに捨て難い趣がありますが、あまり続くと、さすがにうっとうしい感じがして参ります。幸い今日は快く晴れて、まえに錦江湾、桜島を遠望することができます。実に雄大という他ない眺めで、この景観のなかに呼吸していると、精神の空間までもが涯しなく広がってゆくような思いが致します。後景には、韓国岳を中心に、太古の野性を想わせる鬱蒼たる山脈が続きます。秋風が、丘陵に密生したとの白い穂波の上に颯々と鳴り渡り、そして木々の梢をざわめかせています。爽やかであると同時に、何か物悲しい響きでもあり、これから厳冬へ向かう自然の荒蓼たる威厳が秘められているのを感じます。
 お手紙を拝見して、井上さんの登られた穂高の、目の覚めるような紅葉の美しさが、彿彿と眼前に浮かんでくるように覚えましたが、残念なことに、こちらはまだ紅葉の真盛りにはいたっておりません。もう一両日して帰京の予定ですが、恐らくその後に燃ゆる紅葉が見られることでしょう。しかし、盛りを迎えかけている紅葉の彩なす微妙な色合いの美しさも、なかなか心魅かれるものがあります。
 それにしても、御自身穂高に登られたことには、少々驚きました。私は生来の病弱もあり、また近年は繁忙な生活の故もあって、ついにこれまで登山の愉しみを味わう機会がありませんでした。そういう私ですが、山の呼びかける無言の声に応じて登られるという御心境は、きっとその通りにちがいないと思われました。
2  先ほど、高原を散策しながら、御書面と共にお贈り頂いた鉄斎の画集のことを思い起こしていました。
 水墨山水の古画は、私もこれまで池大雅、与謝野蕪村、渡辺崋山などに親しんだことがあり、まったく馴染みがなかったわけではありません。しかし、鉄斎については、正直のところ、これまであまり感応するものがあったという経験はないのでした。画集をひもとき、井上さんのエッセーを読ませて戴いたのを機縁に、私なりにこれからじっくりと鑑賞してみたいと考えている次第です。
 一枚の絵には、作家の人と人生を知って理解し得る部分と、直観に訴えかけてくる光彩の部分とがあるように思います。私は鉄斎の人と人生を詳しくは知りませんが、しかし絵自体について言えば、まさに「墨に五彩あり」という言葉が、ぴったりするような、躍動する生命感が奔放にあふれているのを感じます。とくに死の直前の作品である「梅華書屋図」や「瀛洲僊境図」は、燃え尽きんとする生命の火先を画筆に託したものと言っていいかと思います。その赤い花の点描を、井上さんは「作者の生命が飛んででもいるかのようである」と表現されていますが、それが生命のほとばしりであり、飛沫しぶきであるからこそ、類い稀な傑作が生まれたのでしょう。
 この画集は、鉄斎のいかにも自在無碍な作品の数々が収められ、よく編集されていると思います。ただ、縮小された印刷画では、原画の躍動する生命は、必ずしも感得されない憾みがありますが、これは画集という制約上、やむを得ないことでしょう。むしろ、そういう鑑賞者の不満を喚起すること自体が、画集の持つ役割でありましょうか。私はそれらが傑作である所以を、井上さんのエッセーから把握し得た気がします。しだいに墨色の薄明に暮れていく霧島の自然のなかで、私には鉄斎の画境と、そしてそこに寄せられた井上さんの詩境とが、静かに共鳴しあっているように思われてなりませんでした。
3  今回のお手紙で、穂高のこと、鉄斎のことに触れられたのは、それが井上さんの″美しいものとの出会い″という、かけがえのない貴重な体験であったからにちがいないと思います。それに触発されて、私は私なりの″美しいものとの出会い″を考えずにはいられませんでした。その想いのなかに、つい数日前に出会った一人の年老いた婦人の姿が映じてきました。
 この研修道場は、全国各地や海外から集うメンバーが、疲れを癒し、心おきなく対話しあうために作られたものですが、先日、ここにブラジルのメンバーが訪れ、日本の会員との交歓会が開かれました。そのなかに、移住者で日本を去って以来、数十年ぶりに初めて故国へ戻ってきたという婦人がおりました。彼女は幾十年の辛酸をなめ、それに耐えながら、アマゾンの奥地で開拓の汗を流しつづけましたが、その労苦の結果、今は立派な農園を経営するまでになったのでした。彼女は、二度とふたたび、来ることもあるまいと思われた故国の土を踏んだ喜びを語り、自分が今日まで生きてこられたという事実そのものへの、しみじみとした、畏敬に近い感謝の気持を述べていました。ああ、美しいな――私は胸を打たれずにはいられませんでした。
 その日焼けした額に刻まれた皺の一筋一筋が、彼女の人生の辛苦を偲ばせました。人は艱難によって磨かれるとも言われますが、すべての格言がそうであるように、この格言もまた、半面の、そして半面だけの真実を射ているにちがいありません。その人が艱難を受けとめて耐えぬき、戦いぬいたところにのみ、それは輝きを放つものでしょう。人生の風雪にさらされながら、その試練に克った人のみが、この格言を肯定できるのではないでしょうか。
4  今、私は八十九歳の、最晩年の鉄斎が描いた傑作を目にしながら、鉄斎の生涯自体が、その傑作群に値するものであり、また敢えて言えば、一人の無名の老婦人の生涯もまた、それに十分、拮抗し得るだけの美しさを持っているものなのだ、という想いに駆られてならないのです。こうした言い方は、多分に客観性を欠いているかも知れませんが、私には、人生を長く、そして立派に生きたという事実は、それだけで尊いものがあると思われます。
 老醜、老残などという言葉があるように、″老い″というものは、とかく否定的に考えられがちです。しかし、だれしもが必然的に迎えねばならない″老い″とは、ある意味では、人生の総決算、総仕上げであり、その生の完結であります。私はかねがね人生の本当の勝負というものは、老境にいたって決まるものである、最後の姿がその人の人生のすべてと言えると考えてきました。半生を一つの砥石として磨き上げた清冽な生命の輝きが、そのまま昇華されていくわけです。逆に、怠惰と憂鬱の半生は、その老いの姿にもまた不幸な影を宿しているもののようです。
 ″老い″の美しさ、美しく老いること、――それは、人生のいかなる時期の美しさにもまして、尊い美しさではないでしょうか。老い、あるいは晩年というのは、人生の秋であり、その美しさは、言ってみれば、紅葉の美しさなのではないかと思います。その意味では、青春の美しさは、青葉のきらめきに譬えられるかも知れません。もちろん、その眩しいほどの美しさは、確かに比類ないものですが、そこには若さ故の浅さというか、ひとたびそれが失われたあと、そのまま朽ち、枯死していく脆さを――少なくともその可能性を――危惧させるものがあります。それに比して、老いの美しさというものには、ある深さがこめられているようです。
5  私は、トルストイの晩年の顔が好きです。この、八十二年間の生涯が、つねに一つの戦場であり続けた天才の顔について、ロマン・ロランは次のように表出しています。的確で、見事な表現だと思います。
 「彼の顔は決定的な顔だちとなり、その顔だちの下に人々の記憶にのこることとなった。二つの皺が弓形によこぎっている広い額、蓬々ぼうぼうとのびた白い眉毛、ディジョンにあるモーゼの肖像を思わせる長老らしい髯。老顔は穏やかに優しくなり、病気と悲しみと愛情に充ちた優しさの痕を止めていた。二十代のほとんど動物的な野性や、セバストポールの兵隊の頃の気取った厳格さからいかに変ったことだろう! しかし澄みきったその眼は深い凝視と、自分の何物もかくさず、何ひとつ見逃すことのない誠実な眸を常にもっている」
 老いたるトルストイが、人生の最後に家を出、名もない寒村で倒れ、ふたたび起つことがなかったことは、よく知られていますが、その臨終の床で、トルストイは、自分自身のためにではなく、不幸な人々のために泣いた、と伝えられています。
 「地上には幾百万の人々が苦しんでいる。どうしてあんた方は私一人のことをかまうのか?」
 事実、この通りの言葉を言ったのかどうかは別として、ともかくこの最期の言に象徴されているようなトルストイの姿勢が、あの晩年の顔に凝縮されていることを感じます。
6  一人の老婦人のことから、トルストイの顔にまで、つい話が及んでしまいました。彼女の顔は、もちろん、トルストイの場合のように、多くの人々の記憶に留められることはあり得ません。しかし、私は無名の一庶民の顔にされた、その愛情に充ちた優しさ、深い凝視、誠実な眼差し、労苦を超えた安らぎを見る時、いつも胸奥から噴き上げてくるような感動の念を抑えることができないのです。
 最近の御著書『わが一期一会』は、「毎日新聞」の日曜版に連載中に、あらかたは読ませて戴いておりましたが、今度、単行本(毎日新聞社刊)に纏められたのを、あらためて読み返させて戴きました。どの随想も、井上さんの″一期一会″の御経験を綴られた、味わい深いものでしたが、ことに″一座建立こんりゅう″という章節は興味ぶかいものがありました。この言葉が最近好きになっている、とお書きになっていますが、私も良い言葉であると思います。
 一座建立の精神というのは、お茶にしろ、連句にしろ、その一座に居合わせたものが、互いに相手を尊敬し、心を合わせ、何刻かの心などんだ高い時間を共有しようという気持があって、初めてその世界の楽しさ、純粋さ、高さを生み出すことができるものである、と述べておられます。さらに、それは大変、密度の濃い、次元の高い芸術世界ではあるが、もっと広く、この現実生活のなかにも、一座建立によって造り上げられなければならぬものが、たくさんあるはずだとも書かれています。
 私はこれまで実に多くの人々との触れ合いの機会を持つことができました。井上さんの、甚だわが意を得たお言葉を、勝手に用いさせて戴くならば、私はそれらの人と人との触れ合いのどの一つも、私にとって″一期一会″ならざるものはないと覚悟しております。それ故に、つねにそれは、そこに居合わせたものの生命と生命との深い交流から生み出される″一座建立″でありたいと念じています。そうした出会いの機会を、生涯にわたって、数多く持つことができるのは、私のひそかに誇りとしているところであります。
7  今回もまた、大変、我田引水の話を書きつらねてしまいました。本当は、前回のお手紙のなかにお認め戴いた、井上さん御自身が癌の恐怖へ直面し、向かいあわれた体験についての所感から書き始めるつもりでおりましたが、考えてみれば、これはもうそれだけで他人の口の容ることを許さない厳粛な内容のものです。何か感想を書こうとしても、すべてそれは無駄言であると思うようになりました。しかし、そこに書かれた事柄は、それを読んだ多くの人に勇気を与えるものであり、かつまた、それ自体、『化石』という作品の最良の解説であり、さらに井上文学を理解する一つの鍵であると考えられます。
 今はただ、私の身勝手でわがままな願いに応じて、このような内面の秘奥に属することをお洩らし戴いたことにつき、深い感謝の念を表明するばかりです。
8  ここまで霧島の研修道場で認めたあと、今日、東京に帰って参りました。そして深夜、アーノルド・トインビー博士の訃報に接しました。今世紀の最も偉大な文明史家であり、東西文明融合の英知の人であった――と最早、過去形で表現しなければならないことは、私にとって大いなる悲しみですが――トインビー博士の死去は、まさに″巨星墜つ″の感深いものがあります。とりわけお手紙のなかでお触れ戴いた『二十一世紀への対話』を、博士とともに親しく語り合った時の様子が、つい昨日のことのように懐かしく思い起され、まさしくそれも″一期一会″であったのだと思われてなりません。
 一九七五年十月二十二日

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