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日蓮大聖人・池田大作

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穂高のこと・鉄斎のこと 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  私は五十歳の時初めて穂高に登りましたので、山に魂を奪われるといったそんな山への惹かれ方はしておりません。登山家の″登山″なるものも知りません。ただ、夏の初めか、秋の初めになると、山の呼んでいる声が聞えて来て、それが聞えて来ると、ふらふらと出掛けて行きたくなるだけのことであります。先年ヒマラヤの山地にも出掛けて行き、四〇〇〇メートルの地点まで登りましたが、この場合もまたヒマラヤという山が呼んだからに他ありません。ヒマラヤは大きいので、登山家でない君だって来られるところがあるよ、やって来ないか、そんな呼び声に応じて出掛けたようなものであります。
 山になぜ登るか、山がそこにあるから。――これは登山家と山との関係を端的に言い現わした言葉として有名です。確かに登山家が生命の危険を冒して、次々に前人未到の高処に挑んで行く心の秘密は、このようにしか言い現わせぬものであるかも知れません。しかし、登山家でない私は、この言葉は余り好きではありません。
 山になぜ登るか、山がそこにあるから。――初めてこの言葉を知った時、漠然とした形で、多少の抵抗と反発を覚えましたが、現在はそうした気持の正体が一応はっきりしております。山がそこにあるから登るのだという言い方の中にある傲慢さが、気にかかるのであります。同じ意味で、″山頂征服″とかいうような新聞に大きく取り扱われる言葉も、それを眼にする度に気持にひっかかって参ります。
 単なる表現の問題であって、何もめくじら立てて言いがかりをつけるには当るまいという考え方もありましょうが、やはり大きい自然というものに対する人間の対かい方は、謙虚以外ないのではないかと思います。登山に限らず、あらゆることに於て、人間は自然を征服するなどということはできないでありましょう。
 このように書きましたが、山の大きさ、自然の崇厳すうがんさを最もよく知っているのは、登山家であるに違いありません。その登山家たちの山へ登ろうという気持を″なぜ山に登るか、山がそこにあるから″という言葉で説明するとなると、大切なところで間違ってしまうのではないかということを言いたかったのであります。
 おそらく池田さんとご関係ない登山談義を、ながながといたしましたが、池田さんとトインビー氏との対談の記録である『二十一世紀への対話』の中で、お二人が人間と自然の問題に触れておられましたので、そしてその箇処を最も興味深く読ませて頂いておりましたので、このような山のお手紙になってしまいました。
3  勝手なことを認めさせて頂いた序でに、もう一つ勝手なことを申し上げることにいたします。
 今日は朝から気温が落ち、烈しい雨が降っておりますが、書斎で机に対かって、お便りの筆を執っておりますと、妙にお喋りがしたくなって参ります。
 昨日のことですが、ある雑誌社から、電話で″今年印象深かったこと″を一つか二つ挙げてくれないかと言われました。いやに気の早い質問に思われて、″紅葉の穂高に登ったこと″、それだけ答えて、受話器を置きました。受話器を置いてから考えてみますと、次に出る雑誌は今年の最終号の十二月号で、雑誌としては、その質問がそれほど気の早いものでも、当を失したものでもないことに気付きました。今更のように一年が慌しく過ぎ去って行くことに愕然といたします。そして、それでは一体、″今年印象深かったこと″を本気で拾うとすると、いかなるものを拾うことになるであろうかと、自分だけで考えてみました。
4  私の場合、今年の事件で、一番大きいことは、一月に京都に行って、鉄斎の作品を七十点ほど固めて見たことでありましょうか。
 鉄斎の作品に多少でも関心を持つようになったのは、この数年来のことで、それまでは、生涯にわたっての作品が万を数え、その中には偽作もたくさん混じっていると言われているこの作家には、さして特別の関心は持っていませんでした。えらい画家には違いないらしいが、自分とは肌合が違う、そんな気持でした。奔放自在の描き方の中に、生気発動しているような作品の前に立っても、こういうのが鉄斎なんだと思うだけで、さして心は惹かれませんでした。まあ、自分にとっては、無縁な画家だと、そのように思い込んでおりました。
 ただこの数年来、鉄斎がたくさん描いている仙境を取り扱ったものに、多少気になるものを感じておりました。いつか機会があったら、そうした作品、特に晩年の仙境画を幾つか固めて見たいものだと思うようになっておりました。それと言うのも、鉄斎のそういう作品の前に立つ度に、鉄斎は本気でこのような仙境、理想郷を夢み、このようなところで本を読んだり、ものを考えたり、絵を描いたりしたかったのであろうか、そういった鉄斎の心の内部を探るような思いにさせられていたからであります。私自身は仙境や理想郷に遊ぶというような気持は持っておりませんので、いつも他人事という他ありませんが、ともかく、そういうお節介な気持にさせられておりました。謂ってみれば、作品の純粋な鑑賞ではなく、鉄斎描く仙境そのものの品定めのようなものであります。
 そんなわけで、鉄斎晩年の仙境画の幾つかを、固めて見てみたい、そんな気持になっていたのであります。このようなことがありましたので、中央公論社刊行の″日本の名画″二十巻のうち、どれか一冊を受持たなければならなくなった時、全く勉強するようなつもりで、鉄斎の巻を選びました。
 そして鉄斎に関する小論を書くために京都に行って、博物館その他の場所で、鉄斎の作品七十点を見ました。その大部分のものが、何らかの意味で、みな仙境を取り扱ったものでありました。そのうち晩年の八十代のものが二十一点を占めており、その大部分のものもまた仙境画であったことは、私にとっては仕合せなことでありました。
 ――このような仙境に、あなたは本気で住みたいのですか。
 心の中で、私は鉄斎に話しかけます。すると、鉄斎は、
 ――それが気に入らないなら、それでは、これはどうか。
 そんなことを言って、次々に新しい仙境画を示して参ります。
 実際に、このようなやり取りをしているような気持で、私は三日間にわたって、鉄斎のたくさんの仙境画の前に立ったのであります。
 そして、このような慌しい見方をして知ったことは、八十五歳以前に描いている鉄斎の仙境は例外なく、中国の理想郷か、あるいはこの世ならぬ神仙の国であるということでありました。それが八十代の半ばを過ぎた頃から、同じような構図ではありますが、日本の陽光が降り、日本の風が吹いている日本的仙境と言うべきものになって参ります。そしてそれは歿年(八十九歳)のおだやかな華やぎを持った「梅華ばいか書屋図しょおくず」とか「瀛洲えいしゅう僊境図せんきょうず」とかいった傑作につながって行きます。もうこうなると、私のようなものでも、堪まらなく入って行ってみたいと思うような理想郷になっております。
 鉄斎は晩年になるに従っていい作品を描いたと言われておりますが、私自身、なるほど、そうだという思いを持ちました。そして八十九歳の死の直前に次々に傑作を描いた鉄斎という画家を立派だと思わないわけにはゆきませんでした。それから生涯たくさんの仙境画を描き続け、そのすべてが異国の仙境であったのに、晩年になって、それが日本的仙境に変って行ったということにも、ある感動を覚えずにはいられませんでした。
5  それから、もう一つ、胸を打たれたことがあります。それは八十七歳から八十八歳へかけての短い一時期の仙境画が、多少趣を異にしていることであります。巨大な岩山が仙境の舞台になり、楼閣は描かれてありますが、どこも人の姿は見出せません。無人の仙境であります。水の流れは岩の上を奔り、急湍きゅうたんになったり、滝になったりしています。月の夜などを想像してみると、さぞ凄いであろうと思われるような、そんな荒涼たる仙境であります。こうしたことから考えると、八十七歳から八十八歳にかけての短い時期の鉄斎は、何か心の内部に荒涼たるものを持っていたとしなければなりません。この二年ほど前に鉄斎は子息を失っておりますので、そうしたことが関係していたかも知れません。しかし、これは私の単なる推量に過ぎません。
 そして、この時期を過ぎて、最晩年のおだやかな、華やいだ明るい画境へと移って行くのでありますが、こうなると、一体、鉄斎が仙境という名で描いていたものは、果して理想郷であったろうか、こうした思いを持たざるを得なくなります。八十九年の長い生涯の、その時点、時点に於て、鉄斎は仙境というものに託して、偽らず自分の心を描いていたのかも知れません。その時々で、その志を、怒りを、悦びを、悲しみを、それぞれにふさわしい仙境という箱の中に盛っていたのかも知れません。私は鉄斎のおびただしい数の仙境画を、改めて見直さなければならぬ思いにさせられました。
 いずれにせよ、鉄斎の晩年の作品をある程度纏めて見たことは、私にとってはたいへんいいことであり、今年の事件である許りでなく、生涯の事件と言っていいものかと思います。
 つい筆のおもむくままに、鉄斎のことを、これまたながながと認めてしまいました。しかも読み返してみますと、甚だ意に満たないものになっております。先に記した″小論″なるものをお目にかけ、その上で足りないところを補って頂くほかないかと思います。御諒承下さいますように。
 一九七五年十月十八日

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