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日蓮大聖人・池田大作

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生と死について想うこと 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  冒頭から、少しく堅苦しい話柄を持ち出して恐縮です。実はこの夏、井上さんの小説作品を幾つかまとめて読ませて戴きましたが、そのなかでもこれもつい先日、『化石』という作品を文庫本で読み終えた折で、私自身、とりわけ感銘深いものがありました。今日のお手紙は、ぜひこの作品について感ずることを記させて戴きたいと思っておりました。それで、この雑談のなかの感想が印象に残っていたわけです。
 井上さんの『化石』という作品は″死″が主題になっております。またそれは逆に″生″が主題であるとも言えましょう。いわば、生と死という人生の根本問題について、正面から取り組まれた作品だと思います。寡聞にして私にははっきりとは言えませんが、日本の文学作品のなかで″死″を主題にして書かれた本格的な長編は、意外に少ないのではないかと思います。それだけ、これは小説としては扱いにくい、困難な主題である証左でありましょうか。
 死をたんなる一般的な想念や、他人の身の上の出来事としてではなく、自身ののっぴきならぬ現実としてつきつけられた場合の人間は、どのような衝撃を受け、懊悩を内に抱くものなのか、――『化石』の主人公である事業家、一鬼太治平は、その一つのパターンをリアルに私どもの前に提示しています。
 一鬼太治平は、旅先のパリで、まったく偶然的な事情によって、自分が十二指腸腫瘍に冒されており、しかもそれは手術不可能な部所にあり、もうあと一年の生命しかないということを知らされる。その事実を本人が知り、それ以外のだれもが知らないという設定で、絶えず、死という同伴者から離れることができず、その同伴者と内面の対話を続けていく。……
 私は文庫本の小さい活字を眼鏡をかけて追いながら、時々、眼の疲れを休めるために外すのももどかしい思いで読み進みました。死という想念が、一鬼の脳裡に深く取り憑いた時の叙述、――
3  と言って、一鬼は死の問題から、たとえ一時的であるにせよ、解放されているわけではなかった。死と一緒に歩いていた。今まではいつも船津(秘書)と一緒だったが、いまは死と一緒だった。死は一鬼と一緒に、一鬼と同じ歩調で歩いている。一鬼が立ち停まると、死もまた立ち停まる。一鬼が道を曲ると、死もまた一緒に道を曲る。
 一鬼は死という同伴者を連れて歩いていた。このはなはだ香んばしからぬ同伴者は、きのう城崎(パリの医師)から電話がかかって来た時、その時ふいにどこからともなく舞い降りて来て、ぴたりと彼に寄り添ってしまったものであった。それ以来、片時も彼から離れていない。……
4  また、ホテルの窓から公園にいる老人の姿を見守りながら、一鬼は、「あの孤独な老いさき短い人間も生きようとしているではないか。これからどれだけの時間を生きるか知らないが、とにかく、その生きている時間を、よりよいものにしようとしているではないだ」と独自し、そして「自分もまた生きるべきだろう」と考える。
 さまざまな懊悩の果てに、死という同伴者に馴れ親しみ、それを迎え入れようという心境になっていた一鬼が、不可能と思われていた手術に奇蹟的に成功し、死が彼方に遠のいた時、今まで死と対面してきた何カ月かの時の流れが、まるで化石のように眼に映ってくるという物語の終わりの方の描写には、ひときわ印象深いものがありました。
5  何もかもが化石になってしまった。マルセラン夫人(パリでめぐり会った女性)も、マルセラン夫人を取り巻いて流れていた時間も、みんな化石になってしまったと思った。ここで一鬼はもう一度自分に言いきかせた。今は化石になってしまったあの不思議なぴいんと張った暗い、しかし透明な時間の中に、もうお前ははいって行くことはできないのだ。その資格はないのだ。高遠の桜も、ソーヌ川も、ロマンのお寺も、マルセラン夫人もみんな化石になってしまったのだ。
 そして一鬼は、これからの人生をいかに生きるかという問題を考え、本当の生き方とは何であるかを考え、死の床で、友人が語った言葉を思う。
6  いつも身辺が清潔である生き方をしたいですね。他人のことを、もっと考える生き方をしたいですね。ひとを押しのけて、自分がのしあがろうとするのは厭ですね。金、金、金と、金を追いかけるのも厭ですね。少しでも、えらくなろうと、あくせくするのも厭ですね。鳥の声を聞いて、ああ、鳥が鳴いていると思い、花が咲いているのを見て、ああ、花が咲いていると思う、そんな生き方がいいですね。
7  これらは私が感銘を受けた個所のほんの一部を抜き書きしたものですが、もちろん私には、文学作品としての『化石』を論ずる資格はありません。また、この作品中に展開されている一種の死生観ともいうべきものについて、思弁的な意見を述べる心算つもりもありません。ただ、これだけ″死″と取り組んだ哲学的な小説であって、しかも確かな手応えを感じさせる作品に結晶させた根本的な鍵は何であろうか、と思わずにはいられませんでした。すべては作品自身が語り尽くしていることである、とは思いながらも、一人の読者としてのわがままな希望を言わせて戴けるなら、この作品を執筆された動機と言いますか、御自身の体験と言いますか、そういったものをお話し戴ければと願わずにはいられません。
 と申しますのも、この作品はたんに文学的力量の卓越した作者が、″死″という、それ自体では観念的な主題を設定して書いたというだけのものではないと思われるからです。そこには、井上さん御自身の深い心的な動機がおありになるにちがいないと思うのです。これは私の推量にすぎませんが、そういう意味で、あえて非礼を顧みず、率直にお伺いしてみたいのです。
8  私事にわたりますが、私は十代の後半からずっと、胸を患っておりました。恩師戸田城聖先生は絶えずそのことを心配して下さっておりました。
 ――おまえも長生きできない身体だな。できることなら、私の生命を削って、お前にあげたい。
 そう言われた時の、胸の焼きつくような想いを忘れることができません。
 私は、幾度も自分の身体の不甲斐なさを想い悩みました。私は生きなければならない、断じて生きる、師の慈愛に応えるためにも……、そして自己の使命を果たすまでは、と決意しながらの毎日でありました。思えば、何度、死の淵まで駆けおりたことか、もうこれでだめかと、一度ならず観念したことさえあります。しかし私の場合、死の淵をさ迷いながらも、今まで本当に死の恐怖というか、死への想念にとらわれたという記憶がないのです。
 そこで『化石』読後の最初の印象を言えば、それは死をテーマにしながら、死の暗鬱さをほとんど感じさせない作品です。一種の生と死を貫いた透明な明るさ、というものが全体の雰囲気の基調になっています。
 主人公は、死の絶望と不安を契機にしてつねに「生きる」ことの意味を考えています。それは、暗きをもって暗きを照射するようなものであり、死と生との幽明の境に漂う薄明の美しさがいかにも文学的に奏でられている、とも言えましょう。それは井上さん御自身の陰翳に富んだ死生観に深くかかわることではないのだろうかと、独り合点をしている次第です。
9  ハイデッガーに「人間は死への存在である」という言葉がありますが、生と死は人間にとって、もっとも根源的な謎です。あらゆる宗教と哲学の中心命題がこの一点に据えられているということも当然だと思います。仏教にも、有名な四門遊観の説話があります。
 釈迦が王宮にいた頃、城から遊びに出ようとし、東門から出ると、そこに老人の姿を見、南門に病人を見、西門には死人を見た。そして、北門では出家した者が歩いている姿を眼にし、それに心をうたれて自らの出家求道を決意したという話です。この逸話は、生老病死という人間存在とともにある根源の苦悩を凝視し、その解決の道を求めたという仏教の出発点を示唆しています。確かに″老″と″病″は、″死″に関わるものですから、″死″とそしてそれを内包した″生″自体が人間苦の根源であると言えましょう。
 日蓮大聖人も御書のなかで「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と説いています。
 人生とは何か、人間、いかに生くべきかという問題は、必ずしも哲学的思弁のなかにのみ、閉じこめられたテーマではありません。あらゆる人々が、それぞれのささやかな生の営みのなかに、よりよく「生きる」道を模索しています。だが、真実に「生きる」ことの意義を発見するためには、私たちは一度「死」という根源的な深淵を視なければならないのでしょうか。いわば「死」の眼を通して、人間ははじめて痛切に「生きる」ことができるのではないか――というのが、勝手読みかも知れませんが『化石』に含まれた最も重要な主題であるように思われてなりません。
10  考えてみれば、生と死という問題ほど人間の知能の範囲を超えた奥行きのある問題はありません。前に丼上さんがお書きになっておられましたが、論理で理解できる範囲のことは、確かに論理を駆使すればいいでしょう。しかし、人間が生きていくには、どうしても理性の尺度だけでは、とどかない未知、未踏の領域が横たわっております。そこに、実はを超えた″信″の道が開かれているのではないかと思います。
 人間は自我を意識し、死を見極めることのできる唯一の存在でしょう。知恵ある生きものであるということは、自分というものをその過去と未来にわたって想わなくてはならないということであり、それは必然的に″死″を意識しなければならない宿命を背負っているということになりましょうか。もっとも、他の生きものといえども、死への恐怖という言葉で表現できるかどうかは別にして、本然的な生命の仕組みとして、生への執着、死への抵抗といったものは具わっているように思われますが。
 志賀直哉の『城の崎にて』に、溺れかかった鼠の話があります。一度、死に直面した作者の眼が、自らの心象風景に、この生死の問題を点景のように描いていたのを想い出します。
11  鼠が殺されまいと、死ぬに極つた運命を担ひながら、全力を尽して逃げ廻つてゐる様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持になつた。(中略)死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいふ動騒は恐ろしいと思つた。自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努
 力を続けなければならない。今自分にあの鼠のやうな事が起ったら自分はどうするだらう。自分は矢張り鼠と同じやうな努力をしはしまいか。
12  私たちは通常、刻々と流れゆく日常的な時間のなかに、安易に埋没しがちですが、時にその流れを切り開いて、もっとも非日常的な″死″への眼差しを向けることも必要なのではないでしょうか。
 しかし、現代人には、その死を真正面から見すえること、生と死といういわば生命の二面性をしっかりととらえ、自覚化して生きることは、はなはだ難しいようです。
 手にとることのできるもの、明らかに見えるもの、じかに身体に感じるもの――現代人は、いっそう物欲と快楽にしか生の手応えを感じとることができなくなってしまったか、まるで刹那的な現世主義の虜になってしまったかのようです。
 しかし、人間の、生命の因果は逃れることはできないものです。井上さんの『化石』が広い読者に支持され、特に若い読者に共感をもって読み継がれているのは、現代人が超えようにも超え難い生死の狭間にひとしく遭遇する日常の生活にもよるのでしょう。私は岸本英夫博士の『死を見つめる心』や高見順の詩集『死の淵より』などがよく読まれるのは、何も現代の象徴的な病であるガンと闘った苦闘の記録だからということだけではないと思います。
 井上さんは死の宣告をされた『化石』の主人公に、「生命力が弱くなると、自分のことしか考えられなくなる」と語らせています。私も同感です。結局、豊かな生命力の発露こそが、エゴイズムの殻を打ち破り得るのでしょう。生命力が更に衰えてくると、ひとはかけがえのない自分さえも放擲しかねないものです。
 他者について思いやること少なき時代に、生命力の枯渇の傾向を指摘せざるを得ません。充実した生の営みは、死を無視したところからは生まれません。生死不二の思いを日常化することのなかから、現代人の生命観が確立されていくにちがいないと思います。
13  ここかしこに、秋の気配が色濃く立ちこめてまいりました。灯火親しむ秋――久しぶりに充実した読書の時間を持つことができ、その読後の印象と、それによって触発された感想とを、切れ切れに書かせて戴いた次第です。何分、時節の変わり目です。幾重にもお身体に気を配られて、御自愛なされますように。
 一九七五年九月十六日

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