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日蓮大聖人・池田大作

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ある獄中体験に思う 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  前回の御書面のなかで、井上さんは五月という月が好きであると書いておられました。私は一月生まれで一月という月に人懐かしさをもっておりますが、五月も好きな季節です。パリ、ロンドン、モスクワと旅をしてきましたが、萌え出づるような新緑が鮮やかでした。
 特にパリの五月は、いつも素晴らしいと思います。どういうわけか、私がヨーロッパを訪れるのは、五月という季節が多いのです。前回も、その前の時も五月でした。
 マロニエの街路樹は、枝々に白い花をたわわにつけ、舗道に白い花弁を散らしていました。セーヌの水はぬるみ、さぎめくような川面が、柔らかい日差しのなかで光っていました。歴史を刻む街と調和した光景は、何度見ても心魅かれるものでした。
 しかしそれにもまして、多くの人との交流、接触の機会の得られることが、私にとっては旅の魅力となっています。
 パリでは四つの対談を致しました。アンドレ・マルロー、ルネ・ユイグ、ジル・マルチネの各氏とは、いずれも再会でしたが、ローマ・クラブの代表世話人であるアウレリオ・ペッチェイ氏とは初めての対談でした。御存知のこととは思いますが、ペッチェイ氏は二年前、ローマ・クラブ東京総会で来日されております。
 ローマ・クラブは、反響を呼んだ「成長の限界」という報告に見るように、人類の未来の危機を警告し、その解決策を探って活動している団体です。その創設者であるペッチェイ氏は、物質的成長の限界を説き、人間性革命を提唱しています。
 人類は遠からず資源、食糧、人口問題などで文明の岐路に立たされるにちがいない。いやその時はすでに目睫もくしょうに迫っている。しかしそれでもなお、人間のもつ可能性を信じ、新たな選択、適応への英智を信じ、期待もする。――その信念が、氏の提唱する人間性革命の礎石となっているようです。
3  氏の語るところによれば、これまで人類が経験した三つの革命――産業、科学、テクノロジー革命は、いずれも人間の外側における革命であった。その革命の帰結としてもたらされた今日の混乱と危機は、人間の内側からの革命でなければ回避できないであろう――というのです。
 そしてペッチェイ氏は、人間はそれを達成するにちがいないと信じ、行動しているわけです。「私は楽天家かも知れません」と氏は笑っていましたが、私はそこに、どんな困難な課題に直面してもたじろがず、次の局面を開くために挑戦しゆく一人の、真実の理想主義者の姿を見る思いがしたものです。それにしても、その果敢な姿勢はどこで、いかにして培われたものだろうか、と対話の途中から私は考えていました。
 二時間にわたる対談のなかで、私はたまたま氏の獄中体験について触れました。私事にわたって恐縮ですが、私にも短期間ながら拘置された苦い経験があります。更に、さかのぼって言えば、私の恩師である戸田城聖先生は、その師・牧口常三郎先生と共に、戦時中、治安維持法違反の名目で投獄されておられます。
 それらは横暴な権力との闘いという私どもの、いわば原体験の核になっているものです。恐らく、ペッチェイ氏の現在の立場、そして活動にも、そうした獄中体験が反映されているのではないだろうかと、私はひそかに考えました。
 獄中体験を語る時、がっしりした体躯と精力的な言動を柔らかな物腰のうちに包んだペッチェイ氏の眼には、精悍な気迫を感じさせる光が閃くように思われました。けれども、それはほんの一瞬間のことで、すぐ元の静かな表情に戻っていたのです。むしろ、そこには、私の思いすごしかもしれませんが、ある種の追憶の情さえ湛えられているように見受けられました。
 ドイツにヒトラー、イタリアにムッソリーニが登場し、ファシズムの嵐がヨーロッパを席捲していた第二次大戦中の一九四三年、ペッチェイ氏はフィアット社に勤めながら、イタリア最大の地下抵抗組織に加わりました。そしてその年、氏はローマでの秘密任務を終えてトリノに戻りました。
4  いつもなら、当然人目につく場所を避けるように注意していたのですが、その日はたまたま町に出てレストランに入ったところ、巡回検問にぶつかり、持っていたレジスタンスの秘密書類が発覚し、逮捕されたということです。獄中で何が最も辛かったか、また何を考えていたか、という私の問いに、氏はこう語っていました。気負うでもなく、淡々と話すのです。
 ――最初の頃は、何もかも辛いことばかりだった。最も憎まれている政治犯であっただけに、もちろん待遇はひどいものだった。長く、やり切れない拷問が繰り返された。いく度も死を覚悟したが、拷問には屈しなかった。ある友人が私の保証人になって、弁護してくれた。その友人は拷問にかけられながら、遂に最後の最後まで口を割らずに頑張ってくれた。そのお蔭で、私は初めて自由の身になれた。
 ペッチェイ氏は尽きせぬ感謝の念を目に浮かべながら、更にこうも語りました。
 「一年ほどの刑務所の中で、私は初めて自分という存在を知りました。絶え間ない不安から逃れるために、私は未来のことを考えるほかはなかったのです。未来を考えることによって、現在の苦を克服し、もし生きて刑務所を出られたならば、何よりも社会のために尽くす自分であろう、こう心に決めたのです」
5  戦後、実業家として経済復興に努力したペッチェイ氏は、やがて事業のため世界の各地、とくに発展途上の地域を回るうちに、それらの地の貧しさ、悲惨さに衝撃をうけ、社会問題に目覚めていった、それはやがて人類総体としての未来への危機意識をも強く抱かせるようになった、というのです。いわば獄中の決意が発展して、今日のローマ・クラブの創設につながったと言ってよいでしょう。
 このペッチェイ氏の獄中体験には、胸迫るものがありました。穏やかな語り口のなかで、氏を守り抜いてくれた友人について言及した時、その目には光るものがあったように思います。
 また氏は、かつて自分を迫害した人たちをも、今は赦す気持になっているとも語っていました。苦渋のはてに到達した心境の高さを感じました。忘れ難い体験から、確かに氏は何物かを掴み、そして未来を憂え、そのために行動しています。私として、共鳴する部分が多かったことは事実でした。
6  権力というものには、民衆に対して反動的に働く側面があるようです。したがって権力を抑制することも大事でしょう。しかし民衆の中に権力に断じて左右されない衿持きょうじを確立すること、また権力を持つ側の内面の変革、つまり権力の魔性ともいうべき人間の悪性を克服しゆく不断の自己挑戦が必要となるのではないか、というのが、氏との対談における一つの結論でした。
 ところでペッチェイ氏との出会いは、トインビー博士と私の、二年にわたって続けられた対談が機縁となっていたのです。その対談の終わりに、トインビー博士は、もし今後可能ならば私に会うことを薦めたいと、七人の方の名を挙げられました。多分、博士はまだ若い私に、もっと勉強し、働けとの意味をこめ、紹介してくださったのでしょう。ペッチェイ氏は博士が第一に挙げられた方でした。
 トインビー博士は、今、重い病の床に臥せておられます。お会いできないことは承知の上で、私は今回、博士との対談集がまとまったこともあり、どうしてもロンドンヘ行こうと決めていました。
 ロンドンでは秘書のオール女史と、博士がお元気の頃、仕事をしていたチャタム・ハウスで会いました。オール女史は沈痛な面持ちで、博士の健康の回復は当分の間、難しいであろうと語っていました。慌しい旅程のなかでしたが、私はせめてもの真心として、お訪ねして良かったと思いました。
 ペッチェイ氏との対談の折に、氏が病床の博士を偲びつつ、博士は生涯においてあれだけの業績を残された、悔いはないにちがいない、と語っていたことが思い出されます。
 今、私の脳裏には、断続的に行われたトインビー博士との対話の光景がくっきりと刻まれています。その含蓄に富んだ時代、社会、そして人間への洞察を、未来に承継して行く決意をしている次第です。
7  モスクワは春の盛りでした。まれに寒い日もありましたが、ふだん着で街行く人には半袖姿も見受けられました。トーポリというポプラの大きな花が風に吹かれ、ちょうどタンポポのように、白い綿のような花片が空中を舞っていました。
 ソ連訪問は文化、教育の交流が目的でした。モスクワ大学で拙い講演を行ったのですが、早速お読みくださったとのこと、恐縮しております。はからずも名誉博士の称号を戴きましたが、この世に悲惨や苦しみがある限り、本来、私には称号というものはふさわしくないものに感ぜられます。ただ私は私なりに、人間と人間の心を結ぶ精神のシルクロードを行く旅人であり続けるための、心の称号としたいと存じ、お受け致したわけです。
8  さて、モスクワではレーニン逝去の地レーニンスキエ・ゴールキーを訪ねました。レーニンが晩年をそこで過ごし、療養した館は、市の中心から離れて、ロシア的な静寂さをもった緑に包まれていました。革命の激動期、長い期間にわたって、一日十四時間は働き続けたレーニンは、病床に臥してからも、新国家の未来を構想し続けたと言われています。
 レーニンスキエ・ゴールキーは、今はレーニンの最期の思い出をとどめる博物館として、大切に保存されています。新緑の間をいくと、本洩れ日が差し込み、白樺の梢が光の海でざわめいているようでした。一九二三年秋、逝去の前年に、ここに見舞いに訪ねてきた工場労働者が、レーニンの部屋から見える場所に植えた十八本の桜の苗本は、今はサクランボをつけるほどの大きな木となっていますが、これらの木々は、今日にいたるまでその工場の人たちが交替で、注意深く育ててきたとのことです。
 レーニンの病状を案じた子供たちの手紙が陳列されていました。当時、病状は逐一報ぜられ、口シア中がそれに一喜一憂したのですが、子供たちはクルプスカヤ夫人にこう書いています。
 「クルプスカヤのおばさん。レーニンのおじさんを大切にしてください。元気になったとの知らせで、全世界の人を喜ばせてください」
 私は民衆の中に生き続けたレーニン像を確認した思いでした。それは親から子へ、そして孫へと、人々の生活実感のなかで語り伝えられています。歴史と歳月のふるいを越えた人々の思慕は、レーニンの人間愛、民衆愛に向けられているのでしょう。
 最も心打たれたのはレーニンのデスマスクをとったという彫刻家の、ある作品です。その大きな彫像は屋外の小さな広場にありました。兵士や農民がレーニンの遺体を深い悲しみのなかで、首をうなだれ、やや前傾みの姿勢をとりつつ運ぶ姿を彫刻したものです。市民の手向けた花に埋まるその像を前に、私は兵士や農民の表情に注目していました。そしてそれらの群像の足どりが、言いようのない力感をもって描かれていることに気づきました。
 それは悲しみの向こうに未来を見つめ、レーニンの志を継ごうという逝去の時の、ごく普通の市民の心を、象徴しているように思えてなりませんでした。
 「レーニンは生きた、レーニンは今も生き、将来も永久に生きるであろう」というスローガンも、政治的な臭味を離れて、民衆の素朴な、しかし真率しんそつな実感のなかにおかれた時、最も生き生きとした一個の人間としてのレーニンを感得させるのではないかと、私には思われるのです。
 今回も散漫な旅の印象を書きつらねることになってしまいました。この辺で擱筆かくひつさせていただきます。
 一九七五年六月十四日

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