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日蓮大聖人・池田大作

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武帝と霍去病のこと 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  ここまで認めまして、已むを得ぬ用事のために二日ほどお手紙の筆を執ることを中断されましたが、その間に、留守中の新聞によって、池田さんが私の中国旅行と殆ど同じ時期に、パリ、ロンドン、モスクワと旅行され、たいへんお忙しい、しかし、たいへん意義のあるスケジュウルを精力的にこなされていることを知りました。そしてモスクワ大学名誉博士の称号を受けられたり、モスクワ大学において講演されたり、――池田さんにとっては、おめでたい、忙しい、実に充実した五月であったと思います。またモスクワ大学における講演「東西文化交流の新しい道」の全文も読ませて頂きました。講演の中でお使いになっている含蓄ある″精神のシルクロード″という言葉、それから文化交流が、あくまで相互性、対等性に貫かれているものでなければならぬという御指摘、その他いろいろ感深く読ませて頂きました。いずれ、こうした問題についてはお話を伺ったり、お話申し上げたりする機会があると存じますので、ここではただ、稔り多い旅から恙なくお帰りになったことについて、お悦び申し上げておきます。
3  相変らず重い、湿った空気が漂っている日が続いております。再び私のこんどの中国の旅のことに戻りますが、洛陽、西安という古い二つの都市を訪ねましたので、その二つの古代の都で、心に刻まれたことを、一つ二つ拾って記してみることに致します。
 西安の方は十二年前に訪ねており、こんどは二度目の訪問ですが、洛陽の方は初めてでした。洛陽では、古いものでは龍門石窟も見たいものでしたが、一番知りたいことは、洛陽の名が初めて歴史の上に出てくる東周の都としての洛陽が、地理的に現在の洛陽市といかなる関係にあるかということでした。
 ――東周の城は、どの辺にあったでしょう。
 これが、私が東京から用意して行った質問でありました。洛陽に着いた日、洛陽市内から郊外にかけて案内される自動車の中で、私はこの質問を初めて口から出しました。すると案内してくれている人たちの一人が、やがて郊外の一画で自動車を停め、
 ――この地区が東周時代の洛陽であるとされています。ただ現在はその上に労働人民公園が作られています。
 と知らせてくれました。付近一帯は新しく幾つかの大工場が造られつつある地区で、それぞれの工場の傍には労働者の大きなアパートが造られていますので、工場地帯と言ってもいいし、住宅地帯と言ってもいいような地域でありました。
 労働人民公園の内部にははいりませんでしたが、樹木が鬱蒼と生い茂っている大公園で、その公園の下に紀元前二、三世紀頃の東周の古い都は眠っているわけであります。私はこの古代遺跡に対して採っている措置に感心いたしました。その一画を住宅地帯にもせず、工場地帯にも組入れないで、その上に大きな公園を造っているという遺跡保存の方法はみごとだと思いました。発掘しなければならぬ時には比較的容易に発掘できるわけでありますし、発掘しなければならぬ時が来るまでは安全に保存することができます。しかもその遺跡の上は公園として、洛陽市民の憩いの場所として使われているわけであります。
 もちろん、日本の奈良や、飛鳥の場合はこういうわけには参りません。中国の場合は国土が広いので、このようなことができるのでありますが、しかし、それにしても、なかなかしゃれた、賢明な遺跡保存の方法であると思いました。
4  西安では、その北西方の郊外に於て、漢の武帝の墓である茂陵もりょうと、その部下であった霍去病かくきょへいの墓を見ました。十二年前は見ることができませんでしたが、こんどは思いがけずそこに案内して貫いました。二つとも近年重要文化財としての指定を受けましたので、外国人の私たちも、その前に立つことができるようになったのであろうと思います。
 墓は二つとも、さして珍しいものではなく、大、小二つの丘が大平原の中に置かれてあるに過ぎません。大きい丘が漢の武帝の墓であり、小さい方が霍去病の墓であります。武帝の墓の丘は、高さ四六・五メートル、周囲二四〇メートルと言いますから、かなり大きいものであり、霍去病の方はその陪葬ばいそうの墓になっており、墓の丘の傍に文物保管所が設けられてあって、曾てその墳丘の裾に置かれてあった石の彫刻十六個が陳列されてありました。
 私は漢の権力者と、その全盛時代の優れた部下の二つの墓が、それが造られた二〇〇〇年前とさして変らずに、平原のただ中に置かれてあることに、ある感動を覚えないわけには行きませんでした。私はこれまでに漢の武帝の周辺を、幾つかの文章で取り扱っております。説明するまでもありませんが、武帝の生涯で最も華やかだった仕事は、匈奴の侵略を退け、それを何回かに亘って打ち破ったことであり、その対匈奴戦に於ける花形は霍去病という若い武将であります。身は微賤びせんから出ていますが、武帝に登用され、十八歳の時、八〇〇の騎兵隊の将として出陣して、輝かしい戦功を樹て、以後六回に亘って何万という大兵団の指揮者として出征、甘粛かんしゅく地帯から匈奴を走らせ、西域への道を開くという大きい仕事をやってのけましたが、二十四歳の若さで病歿しております。霍去病が亡くなった時、武帝は四十歳ぐらいですから、それから三十年ぐらい生きたことになりますが、おそらく霍去病ほどの部下には再び恵まれることはなかったでありましょう。
5  これは私の想像ですが、武帝は晩年、自分が眠るべき墓の位置を決めた時、壮年時代に自分の片腕となって働いてくれた若い武人の墓を、己が墓の傍に移したのではないかと思います。霍去病の墓は高さ十四、五メートルの小さい丘ですが、自然石を積み上げ、彼が幾度か戦功を樹てた祁連山きれんざんを象どって造られていると言われています。またその丘の周辺に配されてあった石の彫刻は、祁連山から運んで来た石で造られているとも言われています。
 おそらくそのいずれもが、本当のことであろうと思います。思うというより、そう信じたい気持です。そしてその墓の丘の周囲に配されていた石の彫刻ですが、こんどそれを見て、それが彫刻としてすばらしいものであることに驚きました。魚、馬、牛、猪、蛙、それから歎き悲しんでいる人間、羊を食べている怪獣、走っている馬、膝まずいている馬、匈奴を踏んづけている馬、そうしたものが取り扱われている大きな石の彫刻で、そのいずれもが、天然の石の性格を生かし、その表情、姿態、心理をうまく表現してあります。言うまでもなく霍去病の武勲を称え、その霊を慰めるものであるに違いなく、精微でもあり、迫力もあり、漢時代の石造彫刻の傑作と言ってもいいものではないかと思いました。
6  私は、こんどの旅の間、何回か茂陵と、霍去病の墓のことに思いを馳せました。何か考えなければならぬことがあるように思い、その度に二つの墓の丘を眼に浮かべましたが、結局のところ、そのまま日本に持ち帰る以外仕方ありませんでした。
 現在、私はこのように思っております。私が紀元前の一人の権力者と、その若い部下の墓が並んでいるというただそれだけのことに、思いのとどまるのを感じたのは、計算のない、本当の愛情で、二つの墓の主が結ばれているということを感じたからではないかと思います。
 武帝は優れた権力者であったに違いありませんが、陳皇后、鉤弋こうよく夫人、みな非命に終っている事実からだけでも、ひとすじ縄ではゆかぬ容易ならぬ人物であったでありましょうし、現在の中国の史家も、武帝を大きく肯定面で捉えながらも、晩年の農民の蜂起などの点からして否定面をどうすることもできないようであります。そのような人物ではありますが、しかし、武帝における一番いいところは、若い部下であった霍去病に対する愛情のような形で出ているのではないかと、私は思います。晩年、七十歳近くなった武帝が、自分の生涯で最も華やかだった壮年期を大きく支えてくれた孫のような若い武将ヘ烈しい愛情を覚えたことは、武帝の晩年が暗かっただけに、それが素直に理解されるように思われます。極端な言い方をすれば、私は武帝の周辺を二、三の文章に綴っていますが、こんど初めて、武帝の一番いいところを発見したのではないか、そのような思いに揺られます。私の、武帝と霍去病の二つの墓に対するものは、深読みであるかも知れませんが、しかし、私にはそのように思われてなりません。
7  こんどの中国の旅で、もう一つ、私にとっては事件と言えるようなことがありました。それは、二度目に北京に入った時、親しい友である作家の野村尚吾君の訃報に接したことであります。私が中国に立つ半月ほど前、野村君は私を訪ねて来て、これからの仕事について、私の意見などを求めて、一時間ほど話して帰られたのですが、全くこんどの悲報を思わせるようなものは何もありませんでした。私はどうしても野村君の死を信ずることができませんでした。
 私と野村君は同じ毎日新聞社の同僚で、同じ頃小説を書き出し、作家として一本立ちする前の最も忙しい、大切な時期に、氏は私をかばって、新聞社における私の分の仕事まで引き受けてくれました。そのお蔭で、私は作家としては幸運なスタートを自分のものとすることができました。逆な言い方をすれば、氏は私のために、一番大切な時期を見送ってしまうことになったと言えましょう。
 ――どうぞ、お先きに。
 当時の氏の眼は、いつも私にそのように言っておりました。そしてまさにそのように、氏は私に遅れて文壇に出、きめの細かい、地味な作品を書き、いよいよこれからその資質が大きく実を結ぼうとしているやさき、ふいに死が氏を見舞ったのであります。
 私は氏の訃報に接した時、自分の恩人でもあり、誰よりも親しかった友に、当然語るべき何ものも語っていないことに気付きました。二人の間で交さなければならなかった言葉は、交されないままに、私と共に遺されてしまった思いでありました。
 その夜、十二時過ぎてから、北京飯店の自分の部屋のベランダから、深夜の北京の町を見降しました。ホテルの前を走っている長安街には自動車一台、人の子一人見当らず、きれいに水洗いされた大通りが、大きな街燈に縁どられて、しんとした置かれ方で置かれてありました。
 私にはそうした北京の町が、私の親しかった友のために、今や完全に喪に服しているかのように見えました。私は今はない友に、自問自答の形で、そのことを伝えました。
 池田さんのご存じない友のことを認めましたが、中国の旅のことをお報せするとなると、やはりこのことに触れずにはいられない気持でした。
 いろいろなことを脈絡なく認めました。御静境を煩わしたことと思いますが、お許し下さいますように。
 一九七五年六月十二日

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